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[旅の日記]

和歌浦・和歌山 

 大阪から1時間、和歌山の旅です。
JR和歌山駅から、紀勢本線(通称きのくに線)で紀三井寺駅に降り立ちます。
ここから、駅名にもなっている「紀三井寺」を目指します。

 駅から10分ほど離れたところに、「紀三井寺」があります。
海外のお寺はともかく、日本でお寺というと装飾を施していない柱が、何十年何百年の風雨に耐えて黒っぽい色になってしまっているものだと思っていました。
色鮮やかな朱色の建物は神社だといった先入観があったのは、事実です。
ところが「紀三井寺」の最初に目に入る門は、鮮やかな朱色に輝くものなのです。
1509年建立の「桜門」は、本瓦葺の入母屋造で金剛力士像を安置しています。

 さて「桜門」を潜り抜けたここからが、石段が続きます。
実は、これから展開される本日の階段の苦悩の始まりだったことに、この時はまだ気付くすべもありません。
途中に湧水が高く流れ落ちる「清浄水」を見ながら、ひたすら石段を登って行きます。
「清浄水」は「吉祥水」「楊柳水」とともに、紀三井寺の三井水そして名水百選に選ばれています。

 登り切ったところに、「六角堂」があります。
雑賀弥左ェ門が建立したと言われています。
六角形の形をした建物は珍しくもあり、妙に親しみが持てます。

 右は「仏塔」、そして左側に進むとその先に「本殿」があります。
770年に唐の僧為光上人によって開かれた「紀三井寺」は、和歌山城からほど近いところにあるため、歴代藩主が訪れました。
そして、紀州徳川家の繁栄を祈願した寺でもあります。
「本殿」の前を桜の枝が覆い、桜の時期には大変きれいな場所です。

 「多宝塔」は10代藩主治宝が寄進したものです。
室町中期様式のもので、五智如来が祀られています。

 お参りが終わり階段を降りたところに、お店が並んでいます。
汗を拭いつつ、思わずソフトクリームを頼んでしまいます。
やはりここでは有田みかんの味を選ぶべきでしょう。
オレンジ色の甘いクリームが載ったソフトクリームにかぶりつくのでした。

 ここからは、線路を越え国道42号線を西に向かいます。
旭橋を渡り和歌浦沿いに進んでいくと、「観海閣」があります。
小さな島に向かい、石橋が架かっているのです。
島の名前は「妹背山」で、万葉集にも出てくる周囲250m程の小島です。
相模の江ノ島、近江の竹生島、それに安芸の厳島と並ぶ水辺の名勝です。
「観海閣」は、徳川家初代藩主の頼宣が1648年〜1652年に建てた木造の水上桜閣で、対岸の紀三井寺と対面しています。
当時の建物は第二室戸台風で流出し、現存するものはコンクリートで再建されたものです。

 その裏手で「妹背山」の中腹には、多宝塔があります。
1649年の徳川家康の三十三回忌の際、養珠院(お万の方)が、妹背山に法華経を書写した経石を納めた石室を造り、その上に小堂を建てたのがはじまりです。
養珠院の没後、1653年に紀州藩主徳川頼宣が、小堂を総ケヤキ造りの二層の多宝塔に改築し拝殿と唐門を建立しました。
しかし、明治維新で江戸幕府が滅亡すると禄を失い荒廃していき、檀家のない海禅院は多宝塔を残すのみとなってしまいました。

 そして、そこに架かるのが「三断橋」です。
県内最古の石橋で、中国有数の景勝地である杭州西湖の六橋を模して造られたものとの記載が「紀伊國名所圖會」にもあるところです。

 さて、そのすぐ南側に「不老橋」はあります。
きれいなアーチを描く石橋です。
今は車道の橋の横に隠れるようにしていますが、そんな中でしっかりと当時の姿を残しています。
片男波松原にあった東照宮御旅所の移築に際し、紀州徳川家10代藩主であった徳川治宝が1851年に造りました。
徳川家康を祀る東照宮の祭礼である和歌祭の時に、徳川家や東照宮関係者が御旅所に向かうために通行した「お成り道」として架けられたものです。
石を組み合わせてアーチ型を造る橋本体の技術は、肥後の石工集団によって施工されたものです。

 「不老橋」の橋のたもとには「鹽竈神社」、そしてその西側にある「玉津島神社」に立ち寄ってみます。
「玉津島神社」は、仲哀天皇の皇后息長足姫(神功皇后)が紀伊半島に進軍した際に、玉津島神の加護を受けたことから、その分霊を祀ったことに始まります。
「万葉集」にも「若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴き渡る」と詠われています。

 それでは西に進み、「紀州東照宮」を目指します。
「紀州東照宮」は、頼宣が1621年に南海道の総鎮護として創建された社殿で、「関西の日光」とも呼ばれています。
鳥居を潜り、木々に囲まれ青石が敷き詰められた参道を進むと、その前に現れたのがまたしても長い石段です。
108段の石段の先には、朱塗りの「楼門」が見えます。
息を切らしながらも、一気に登り切ります。
「楼門」を裏側から見ると、鮮やかな彩色で飾られています。
権現造りの「本殿」には、多くの信者が訪れています。
徳川家康が成し遂げた全国統一に報いて、努力していれば必ず成就させてくれる神様として広く信仰されてます。

 「紀州東照宮」の奥に、「和歌浦天満宮」があります。
これまた、岩を積んだような石段が続きます。
今日は行くところすべてが、階段の連続なのです。
それも今回は石段ではなく、平岩を積み上げた階段です。
901年に菅原道真が大宰府に向かう途中、海上の風波を避けるために和歌浦に船を停泊しました。
その時、神社が鎮座する天神山から和歌の浦を望み、歌を詠みました。
その後、参議橘直幹が大宰府から帰京する途中に和歌浦へ立ち寄り、この地に神殿を建て道真の神霊を勧進して祀ったのが始まりとされています。
「和歌浦天満宮」は菅原道真を祀っており、和歌浦一円の氏神として尊崇されています。
社殿は、豊臣秀吉の1585年の兵火の後、桑山重晴、浅野幸長により再建されました。
天神山の中腹を開墾して社地を造成し、入母屋造りで桃山建築の本殿をはじめ、唐門、拝殿、楼門、東西廻廊などを再建し、現在まで残っています。

 さてここからは、3kmほどをバスで移動します。
最後に訪れたのは、和歌山市の中心にある「和歌山城」です。
徳川御三家のひとつである紀州藩紀州徳川家の居城です。
豊臣秀吉の弟の秀長が、1585年の紀州征伐の副将として参陣し、その後「若山」と呼ばれたこの地に秀吉が築城を命じます。
城はわずか1年で完成し、これを機会に「和歌山」と改められます。
1586年には、重晴が本丸を中心に手直しを行、その後の1596年には孫の一晴が城代を継いでいます。
江戸時代に入ると、関ヶ原の戦いの後の1600年に桑山一晴、そして浅野幸長などと次々城主が代わります。
その後、徳川家康の十男である頼宣が55万5千石で入城し、南海の鎮となる御三家の紀州徳川家が成立し、確固たる徳川体制ができあがります。
頼宣は2代将軍徳川秀忠より受領した銀5千貫を使い、城の改修と城下町の拡張を開始します。
しかしこの改修が大規模であったために、かえって幕府より謀反の嫌疑をかけられるほどでした。
1655年には、西の丸に隣接する家臣屋敷より出火し、西の丸・二の丸を延焼、さらには1813年には西の丸大奥より出火し西の丸御殿が全焼します。
1846年の落雷では、御殿を除く大小天守など本丸の主要建造物が全焼し、武家諸法度では天守再建は禁止されていましたが、御三家という家格により特別に再建が許可され、1850年に大小天守等が再建されるのです。
その後も明治維新の廃城令による解体や第2次世界大戦での和歌山大空襲により、解体や焼失をしますが幾度となく復元されて、今の姿を残しています。

 和歌山を訪ねましたが、もうひとつ忘れてはならないものがあります。
和歌山ラーメンです。
JR和歌山駅前のラーメン屋では、醤油味が浸みた細麺が美味しく、最後まで汁を飲み干したものでした。

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