にっぽんの旅 東海 静岡 由比

[旅の日記]

由比の桜えび 

 桜えびで有名な由比の町を巡ります。
その前に是非よりたいところがあります。
JR東海道本線の富士駅で降ります。

 ここで面白い丼があるというのです。
富士の名物ということなので、駅前の食堂に入ります。
「かつ皿」と呼ばれるもので、何が出てくるのか楽しみに待ちます。
そして出てきたものは、丼ではなくカレー皿に盛られています。
ご飯が見えないくらい、とろとろの溶き卵がかつの上にかかっています。
スプーンで食べることができ、実に柔らかい味でした。

 ここから先は、隣駅の富士川駅まで歩いて行きます。
対岸の河川敷では、スポーツ広場や緑地公園が海まで続きます。
その富士川を、富士油井バイパスが跨いでいます。
バイパスの歩道を通って、富士川の対岸に渡ってみます。
富士川の上流に本来見える富士山ですが、今日は山頂に厚い雲がかかっています。
時折切れる雲の隙間から、うっすらと雪化粧したてっぺんが時折覘きます。
しかし今晩から雨になる天気予報の通り、すぐに雲が山頂を隠してしまいます。

 富士川の西側には、多くの工場が立ち並びます。
ここから富士川に沿って、さらに南の海を目指して歩いて行きます。
富士川緑地公園も終わりテトラポットが並びその先に、目指す場所を見付けました。
そこは一面がピンク色をした河川敷です。
その色の正体は、今朝水揚げして競り落とされたばかりの桜えびです。
ここで昼過ぎまで乾燥させるために、黒いマットに敷き詰めているのです。
これを見たくて桜えび解禁の時期まで待ち、さらに駅から30分以上もかかってやってきたのです。
これで遠くに富士山の姿が映れば言うことないのでしょうが、そこまで贅沢をいう訳もいかずこの一面ピンクの風景だけでも圧巻です。
よくまあ、鳥に突っつかれて持っていかれないものだと、感心するのでした。

 桜えびは駿河湾のみで捕れる体長40mmの小さなえびです。
甲にもつ赤い色素のため、身体全体がピンク色に見えます。
漁期は4月から6月までと10月から12月の年2回で、訪れた12月は最後のチャンスです。
夜には水深20〜50mぐらいまで浮上してき、この時をねらって夜間に漁が行われるのです。
それでは、これから由良に桜えびを食べに行きます。
最寄駅のJR蒲原駅まで、またもや30分近く歩いて行きます。

 由比は、駅前に「さくら丸」が展示されている蒲原駅から2駅のところにある、東海道五十三次の16番目の宿場町です。
駅を降りると、通りには桜えびのアーチが迎えてくれます。
ここから新蒲原駅まで続く通りには、懐かしい造りの家々が並びます。
駅から5分も行かないうちに、由比漁港があります。
ここにある「かきあげや」で食事を取ることにします。
椅子を並べ、風よけ替わりのシートで壁を造っただけのシンプルな店内ですが、桜えび目当ての客でいっぱいです。
桜えびの丼と、桜えびのかけあげ、それにえびがいっぱい入った味噌汁のセットを頼みます。
磯の旨味いっぱいで、これに海苔とネギを振って食べ、旨くないわけがありません。
半分ぐらいまで食べた時に、店のおじいさんがポットを持ってきました。
中にはお茶漬けのためのスープが入っており、これを残りの丼に掛けると良いと言うのです。
通りで丼の淵に、わさびがべっとりとついているはずです。
試しにかけて見ると、味が変わってまた食が進むのでした。

 ここから東方向へ「由比桜えび通り」を歩いて行きます。
通りの左奥にある「豊積神社」は、791年創建の由緒ある神社です。
駿河国においては、富士山本宮浅間大社に次ぐ二宮の位置になります。
またこの神社には、坂上田村麻呂が東征の途中で立ち寄り戦勝を祈願し、帰途には戦勝祝いとして神楽を奉納したと言われています。
その隣には「地持院」という寺院もあります。

 通りには「せがい造り」の太い柱をもつ家が並んでいます。
「せがい造り」とは軒下を長く張り出した屋根を腕木で支える造りで、どの家も立派な柱が使われています。
軒桁の両側には「下り懸魚」と呼ばれる風雨による腐食を防ぐための板が、当てられています。
雲版型の板の表面には花鳥などの堀が施されており、一種の工芸品です。

 由良川に架かる「由良川橋」は、歩道に木で強い詰められています。
橋の両側には燈籠が建っていますが、その隣に昔からの石燈籠が残されています。
旧東海道を長く灯し続けた年季の入ったものです。
また橋の中央には歌川広重の東海道五十三次絵での由比の風景が、複製されて飾られています。

 橋の先には「清水銀行由比支店」があります。
正面から見ると4本のイオニア式に柱頭が飾られた柱を備え、柱の間に煉瓦を張った赤と白のコントラストが美しい洋館です。
明治の末には静岡県だけでも110行もの銀行が設立され、昭和20年にはなんと200行を超えるまで乱立しました。
しかしその後統廃合が繰り返され、最終的には静岡、駿河、清水の3行に吸収合併されてしまいます。
この建物も庚子銀行として1925年に造られましたが、駿州銀行に吸収され、さらには清水銀行へと改称された歴史があります。

 道の反対側には「延命寺」があります。
そしてその隣は、「東海道由比宿交流館」があり、「由比本陣」が再現されています。
それでは、由比の歴史をおさらいしてみましょう。
鎌倉時代、高橋光延は奥州攻略の恩賞として源頼朝からこの地を与えられます。
その子の光高が由比姓を名乗ったことが、由比氏の始まりです。
戦国時代には由比氏が由比城を構えてこの地を守っていましたが、桶狭間合戦で城主の正信が戦死し、その子正純は今川氏真も徳川家康の掛川城攻で戦死してしまいます。
その後は、由比光教の子の岩辺郷右衛門寧広が由比を治めます。
江戸時代になり由比が宿場に指定された時には岩辺家が本陣を営み、代々の本陣は岩辺家が務めていました。

 「由比本陣公園」のなかには、「東海道広重美術館」があります。
東海道五十三次絵が有名な江戸時代末期の浮世絵師 歌川広重の美術館です。
火消同心である安藤源右衛門の子として生まれ、幼名を徳太郎、その後は重右衛門と称します。
幼いころから絵心に優れ、15歳の時に初代歌川豊国の門に入ろうとしますが満員で断られ、歌川豊広に入門することになります。
そして歌川豊広と安藤重右衛門の名を取って、広重と名乗ります。
最初は役者絵、そして美人画、花鳥図と進み、ついには風景画に没頭することになります。
1830年は一幽斎廣重と名を改め、彼の描いた「東海道五十三次」はあまりにも有名です。
 「由比本陣公園」と道を挟んで「正雪紺屋」があります。
ここは由井正雪の生家の染物屋です。
由井正雪は、徳川幕府政策への批判と浪人の救済を掲げて、幕府転覆を計画します。
直前になってこのことが密告され、正雪は駿府の宿において町奉行の捕り方に囲まれ自刃してしまいます。
しかしこの事件を境に、幕府は武断政策から文治政策へ転換していくことになるのです。

 さらにこの先には、急な石段の上にある「飯田八幡宮」もあります。
再び由比駅に戻るために、「せがい造り」の家々を眺めながら「由比桜えび通り」を戻って行きます。
初冬の柔らかな日差しの由比だったのです。

   
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