[旅の日記]
城下町 横須賀 
横須賀と言えば黒船が来航した三浦半島の横須賀が有名ですが、実は静岡にも横須賀があるのです。
掛川市にある横須賀には古い街並みが残っているということなので、向かうことにします。
JRの袋井駅から、横須賀にはバスで向かいます。
バスに乗る前に、袋井駅で面白いものを見つけました。
旧静岡鉄道駿遠線の袋井駅で使われていた駅名標が、駅前ロータリの片隅に飾られています。
これから乗るバスは、その路線跡に沿って運行されています。
待つこと10分余り、横須賀方面へ行くバスがやってきました。
ここから海側に30分ほど、バスに揺られて走ります。
車窓からは旧静岡鉄道の路線跡として残された1本の通路、そして駅の跡地が見え隠れします。
やがて海の近くまでやってきたのでしょうか、バスは大きく左に方向を変えます。
そして七軒町のバス停で、降りてみます。
この付近に、かつて城があったはずです。
バス通りから一筋入ったところに、「横須賀城址」はありました。
掛川は西から徳川、そして東には武田が互いに土地を奪い合った場所です。
最初に武田信玄が、掛川城近くの海抜132mの山に城を築きます。
これが「高天神城」で、武田の城です。
それに対抗して、徳川家康は高天神からほど遠くない横須賀に徳川の城を築きます。
それが今居る「横須賀城」で、常に「高天神城」に睨みを利かせていました。
通常は1ヶ所しかない大手門が東西にあることから、「両頭の城」という異名をもちます。
1「横須賀城」は、578年に徳川家康が家臣の大須賀康高に命じて築城が始まります。
城につきものの石垣ですが、通常は権力を誇示するために巨大な石を運んで積上げますが、ここの石はそこらの城とは勝手が違います。
丸みを帯びた玉石が積まれているのです。
実は付近には石を伐り出す場所もなく、困った挙句に思い付いたのが天竜川の河川敷で石を集めてくるといった策です。
おかげで「横須賀城」は全国でも珍しい玉石積みの城郭となったのです。
「横須賀城」は大須賀家が城主として2代勤めますが、その後は渡瀬、有馬、松平などの大名が入れ替わり城主になります。
またこの辺りには、城下町の名残を今でも見ることができます。
静かな街並みを覗いてみましょう。
横須賀街道を歩いて行くと、老舗割烹旅館「八百甚」に出会います。
江戸末期の創業で、昭和初期に建築された格式ある木造2階建ての建物が歴史を感じます。
その先にも古い街並みが続きます。
白い鳥居の奥には、「三熊野神社」があります。
文武天皇の命により7世紀初頭に創建されたものです。
祭神は伊邪那美命、速玉男命、事解男命の3柱で、熊野三山から勧請されたといわれています。
4月には3日間にわたり例祭が行われ、神輿や二輪屋台が引き廻されます。
「山中酒造」は、葵天下や横須賀城などの日本酒を生み出した蔵元です。
近江商人である山中正吉が、現在の富士宮市で酒造業を始めたのが、「山中正吉商店」です。
その後分家し、横須賀で独立した「山中酒造」を興したのが、この酒蔵なのです。
横須賀街道を歩いていると、杉玉が揺らぎここが蔵元であることがすぐ判ります。
その先にも和菓子屋の「吉田屋」が店を構えています。
ただし訪れた6月には早くも夏季休業に入っており、店が再開する10月が楽しみです。
それではここからは旧道からバス通りに出ます。
市役所大須賀支所の北側に、古めかしい建物があります。
ここが「町番所」で、江戸時代に横須賀城地内に出入りする人を監視するために設けられた藩役人の詰め所です。
横須賀城南に接した町との出入口近くに造られました。
今に残るのは、1854年の安政東海地震の後に再建された建物です。
駆け足で横須賀の町を眺めてきました。
その裏には、徳川軍と武田軍が掛川を境に睨み合っていた戦国の歴史があったのです。
権力闘争のために造られた数々の城とそれを成す城下町が、ここにも残っていたことを認識したのでした。
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