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[旅の日記]

開国に沸いた下田 

 本日の旅の舞台は、伊豆半島の南の端にある下田です。
ペリーが上陸した町としても、有名なところです。

 最初に訪れたのは「、了仙寺」です。
1635年に行学院日朝によって、開山されました。
日米和親条約の付属条約となる「下田条約」が締結された場としても、知られています。
本堂には「開国殿」の札が掲げられ、ペリーが黒船を従えて上陸したときの様子を描いた絵があります。
黒船従属画家のハイネの作品で、それを複製したものが飾られています。

 「了仙寺」の山門から外に出ると、「ペリーロード」につながる路地が続いています。
鎖国の日本に開国を迫るために、1853年7月に「サスケハナ」「ミシシッピ」「サラトガ」「プリマス」の大砲を備えた4隻の艦隊で浦賀にやってきました。
うち2隻の真っ黒の船体に蒸気機関で黒い煙は吐く様は、幕府に大いなる恐怖を植え付けたのでした。
ペリーは久里浜に上陸し、開国を促す大統領フィルモアの親書を手渡します。
江戸の港まで進んで充分な威嚇を示した後、その時は琉球を通って香港へ帰っていきました。
日本はこれを境に、海外の勢力に立ち向かうための軍事増強に走ります。

 ペリー再び日本にやってきたのは1854年2月のことで、6隻の船を引き連れて来ます。
その後さらに3隻が加わり、9隻の艦隊が浦賀に集結しました。
1ヶ月に及ぶ協議の末、幕府はアメリカ側の開国要求を受け入れます。
横浜村(現在の神奈川県横浜市)で林復斎を中心に交渉が開始され、全12箇条におよぶ日米和親条約が締結されて、200年以上も続いた鎖国に幕が引かれたのでした。
6月には和親条約の細則を定めた全13箇条からなる下田条約を、この「了仙寺」で締結したのです。

 「ペリーロード」は、ペリーが下田に上陸した際に行進した道です。
平滑川をはさむ約500mの石畳の道のことで、川の両側にはなまこ壁の家屋が立ち並びます。
そして川には柳が垂れ下がり、風情のある眺めです。

 そこに「長楽寺」の入り口があります。
1854年にロシア使節プチャーチンとの日露和親条約が、調印されたところです。
開国後に海外に門戸を開く下田の様子が、よくわかるところです。

 「ペリーロード」でも目にしたように、下田はなまこ壁が残る町です。
なまこ壁とは壁に平瓦を敷き詰め、瓦のつなぎ目に漆喰を盛ったもので、白い漆喰が網の目模様に並ぶ様が美しいものです。
町中の建物がなまこ壁のため、どこか違った世界に迷い込んだかにかに思えます。
「土佐屋」のなまこ壁もそのひとつです。

 「ペリーロード」には、なまこ壁のほかにも壁に銅板を敷き詰めた家もあって、どこか懐かしさを感じます。
その先に「旧澤村邸」があります。
旧下田ドッグの創始者である澤村久右衛門によって、1915年に建てられた屋敷です。
伊豆石が積まれた外塀を見ながら、家の中に入っていきます。
玄関を入った左手に和室があり、舞妓さんが踊りの稽古をしています。
三味線が鳴り響き、三味線に合わせて舞う踊りに対して厳しい声が飛んでします。
資料展示室には、下田の歴史が語られた展示があります。
家の裏には真っ黒で大きな蔵があり、この家の主の位の高さが判ります。

 「旧澤村邸」を出て1分も歩くと、海に出ます。
下田湾を望む港には、「ペリー艦隊来航記念碑」が建ってます。
この地をペリーが踏みしめたことを意味します。
当時の人々は恐る恐るそしてその反面興味深く、ことの成り行きを見守っていたことでしょう。

 ここから街中の家の間を抜けていきます。
下田にはペリーのほかにも、招かざる来客がありました。
アメリカ合衆国の外交官であったタウンゼント・ハリスは、1856年8月に下田にやってきます。
そして、「玉泉寺」に領事館を構えます。
幕府へ大統領の親書を届けようとしますが、水戸藩の徳川斉昭ら攘夷論者が反対しハリスが江戸に出向くことさえ実現しません。
しかし1857年7月にアメリカの砲艦が下田へ入港すると、江戸へ直接来航されることを恐れた幕府はハリスに江戸出府を許可します。
1858年には大老の井伊直弼が京都の朝廷の勅許を無視して、日米修好通商条約が締結されてしまいます。
ハリスは初代駐日公使となり、下田の領事館に代わって公使館を江戸の元麻布「善福寺」に置くことになるのです。

 そんなハリスにまつわる人物として、斎藤きちがいます。
「唐人お吉」の名で有名です。
慣れない異国暮らしからか体調を崩したハリスは、彼の世話をする日本人を探していました。
当時の日本人の多くは外国人に偏見を持ち世話をすることを嫌ったのですが、幕府の執拗な説得によって当時芸者をしていたお吉が世話役を引き受けることになります。
最初は同情的だった町の人も、やがてお吉の羽振りが良くなってくると、人々は彼女に嫉妬しだし良く言うものはいなくなります。
ハリスの体調が回復するとお吉は解雇され、再び芸者の道を進みます。
しかし人々の冷たい視線は変わらず、次第に酒に耽ていきます。
やがて大工の鶴松と同棲し髪結業を始めますが、それもうまくいかず酒浸りの生活になります。
いつしか同棲も解消し、この時開いた小料理屋が「安直楼」なのです。
なまこ壁の「安直楼」が、今でも残っています。
「安直楼」は2年で廃業することになり、その後は物乞いを続けた末に稲生沢川に身投げをして48歳の人生に終わりを告げます。
汚らわしいと置き去りにされたお吉の遺体ですが、哀れに思った宝福寺の住職がお吉の遺体を寺に葬るのですが、その行為に対して周囲から迫害を受けて住職すらも下田を去る羽目になります。
後にそんなお吉の一生を、十一谷義三郎が小説「唐人お吉」で発表したことから、お吉が広く知られることとなったのです。

 下田の町には、それ以外にもなまこ壁をまとった家屋が多く残されています。
「松本旅館」もなまこ壁が美しい建物のひとつです。

今回は寄ることができませんでしたが、湧き出る温泉を楽しめる銭湯も魅力的です。
次回は是非、風呂の準備をしてやってきます。

 最後に訪れたのは「下田開国記念館」です。
ペリー、そしてハリスなどの、日本に開国を求めてやってきた外国人、そして歴史に翻弄された下田の人々の暮らしがここでは語られています。
ペリーの出現により日本最初の開港場となった下田の姿が、資料で残されています。
もちろん、記念館も下田の町に似合うなまこ壁の建物です。

 町を一通り歩き終えて、あとは美味しい魚の食べられる店を探しに出かけます。
ペリー来航で町全体が大騒ぎをした下田、そんな当時の様子を思い浮かべる町の散策でした。

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