にっぽんの旅 東海 静岡 清水

[旅の日記]

清水次郎長と三保の松原 

 本日は清水次郎長を訪ねて、静岡県清水の旅です。
その前に、コンビニに入って腹ごしらえをします。
目に入ってきたのは、奇妙な色をしたコーラです。
透明の小瓶に入っており、薄緑色に濁った液体がコーラというのですが、どうも信じられません。
だって黒茶色で炭酸が効き甘さが口に残るのがコーラなのに、緑色でおまけに瓶には「茶」の文字が。
普段なら見逃してしまうところですが、怖いもの見たさに購入してしまいました。
そして味は…正真正銘のコーラ味には、驚きました。

 次郎長もよいのですが、せっかく清水に来たものですから、まずは絶景「美保の松原」を見に行くことにします。
清水駅からはバスで20分余り。漁港が続く車窓の景色を見ながら、移動します。
日本新三景の一つに数えられる「美保の松原」ですが、何の変哲もない停留所でバスを降ります。

 海側に歩いていくと、「御穂神社」が現れます。
三保の松原に舞い降りた天女の羽衣伝説ゆかりの社としても名高いところで、境内には羽衣の切れ端が安置されています。
本日は見ることができませんでしたが、今でも「羽衣の舞」は引き継がれているということです。

 神社を裏手から入ってきたのですが、正面鳥居から羽衣の松まで「神の道」が続きます。
両側に松が続く遊歩道で、頭の上から照りつける陽射しに、浜からの風が実に心地よいのです。
木の歩道を踏みしめながら、500mの散策を楽しみます。
やがて土産物屋が見えてきます。いよいよ、ここからが「三保の松原」です。

 駿河湾に面する海岸には、多数の松の木が広がっています。
そんな中でもひときわ枝ぶりのいい松に、柵が施されています。
水平に張った枝が、この松の威厳を保っています。
近づいてみると、標識には「二代目羽衣の松」と書かれています。
それならば、初代の松があるはずでは…
枝だけが残り痛々しい姿ですが、二代目から少し海側に、ちゃんと「初代羽衣の松」はありました。

 三保の村に、伯梁という漁師がいました。
ある日のこと、伯梁が松の枝にかかっている美しい衣を見つけて持ち帰ろうとすると、天女が現れて言ったのです。
「それは天人の羽衣です。どうかお返しください。」ところが伯梁は返す気配を見せません。
天女が「その羽衣がないと天に帰ることができません」と言って泣き出したので、伯梁は天上の舞を見ることを条件に羽衣を返しました。
天女は喜んで三保の春景色の中、羽衣をまとって舞を披露し、やがて空高く天に昇って行ったということです。
…そんな羽衣伝説が、ここ美保の松原には伝わっています。

 気持ちの良い風の吹く浜辺でしばらくたたずんだ後、三保半島の東端に立つ清水灯台に向かいます。
海岸の内側の松林を進んでいきます。
右手の海岸の先には、うっすら富士山が山頂を覗かせています。
有名な美保の松原と富士山の2ショットは、冬の空気の澄んだ時期に再び訪れる必要があるようです。

 松の間の遊歩道も途中で途絶え、炎天下の中、堤防沿いのサイクリング用のアスファルトの道をどれくらい歩いたのでしょうか。
清水灯台までの距離の表示は、一向に減りません。
ついに灯台行きは諦めて、バス通りの方に90度の方向転換をします。
そうして歩いていくと、何か見覚えのある通りが現れてきます。
そうです、来るときにバスを降りた停留所近くに居たのです。
実は、御穂神社、神の道、羽衣の松、そして灯台行の遊歩道と、ひたすら歩いてきたように思っていたのですが、地図上では円を描いて元来たところに戻ってきたにすぎなかったのです。
あま、無駄には歩いていないようなので良しとし、汗を拭きながらバスの来るのを待つことにします。

 冷房の効いたバスに乗り込み、清水港の近くの「フェルケーン博物館」まで向かいます。
「フェルケール」はドイツ語で交通を意味し、清水港の生い立ち、歴史を伝える博物館です。
中には船の模型や、港湾で働くときに身に着けていたハッピも展示されています。
そして隣には、初めてまぐろ油漬缶詰を製造した清水食品の缶詰記念館もあり、缶の周りに貼るラベルの展示や製造記号の見方が説明されています。

 ここから次郎長ゆかりの建物へはバス1駅しかない距離ですので、歩いていきます。
途中の「エスパルス通り」には、この地の清水エスパルスを称えて、歩道の柵がサッカーボールの形をしています。
道が巴川と交わるところに、世紀の大親分、清水次郎長の船宿があります。
2階では、自分自身は学歴のない次郎長が、英語の重要さに気付き塾を開いていた様子が再現されています。

 次郎長は1820年に、駿河国有渡郡に船頭高木三右衛門の次男 長五郎として生まれます。
ところが、母方の叔父である米穀商甲田屋の主山本次郎八は実子がなく、養子として引き取られていきます。
次郎八のところの長五郎ということで、次郎長と呼ばれるようになります。
次郎八の死後、甲田屋の主人となりますが、博奕と喧嘩も繰り返し1843年には喧嘩の果てに人を斬ってしまいます。
そして次郎長は妻と離別して実姉夫婦に甲田屋の家産を譲ると、江尻大熊らとともに出奔し、無宿人となります。
諸国を旅して修行を積み成長した次郎長は、再び清水港に戻って一家を構えます。
ここから親分肌の次郎長が、地域の発展のために尽くし、数々の業績が称えられることで有名な次郎長物語が始まるのです。

 さて、船宿からほどなく歩いた場所に「壮士の墓」があります。
1868年8月、品川沖から脱走した艦隊のうち旧幕府海軍副総裁の榎本武揚が率いる咸臨丸は、暴風雨により房州沖で破船します。
修理のため清水湊に停泊したところを新政府海軍に発見されてしまい、見張りのため船に残っていた船員全員が死亡します。
誰もが振り向きもしなかった駿河湾に放置されていた遺体を、次郎長は小船を出して収容して向島の砂浜に埋葬します。
当時静岡藩大参事の任にあった旧幕臣の山岡鉄舟は深く感謝し、これが機縁となり次郎長は明治において山岡・榎本と交際を持ったとされています。
その時の壮士の墓が、ここで弔われているのです。

 駿河湾に注ぐ巴川には、今も多くの小型漁船が岸の両端にびっしりと停泊しています。
川を越えて、対岸の「次郎長通り」を歩いていきます。
多くの店がシャッターを下ろし商店街の存続自体が危ぶまれる中、いくつかの店は活気を取り戻しています。
そんな中、次郎長の生家があります。
扉をくぐり中に入ると提灯、そして名前の入った木札が壁に懸っています。
まるで時代劇の1シーンを見ているようです。
その横にはトレードマークの「長」の文字が入ったのれんがかかっています。
家は縦に長く、その奥に部屋が続いています。
この暑さの中、扇風機をつけながら土産物が売られていました。

 次郎長生家から東へ5分ほど歩いたところに、梅蔭寺はあります。
足利時代から続くお寺ですが、建て直された立派な本堂の脇に、次郎長の墓があります。
お墓に参るのに拝観料を取られるのですが、奥には次郎長資料館もあり、次郎長が受けた贈り物や彼の遺品を観ることができます。
収監、釈放を繰り返し波乱万丈の人生を生き抜いてきた次郎長ですが、地元では親しまれ頼られて、こうして葬られているのです。

 そして夜は、駿河湾のおいしい魚を。
新鮮な魚と旨い酒が、本日の旅のご褒美となったのでした。

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