にっぽんの旅 東海 静岡 掛川

[旅の日記]

掛川城 

 新幹線に乗っていて、いつも気になるものがありました。
掛川の駅近くに、立派な城が見えるのです。
いつかは行ってみようと思っていたのですが、いよいよその夢を果たす時が来ました。

 掛川は東海道新幹線のこだまだけが停まる駅です。
普段は通過するだけですが、今日は「つま恋」で用事を済ませた帰りで、一晩を掛川に過ごす機会ができたのです。
ちなみに「つま恋」とは、ポプコン(ヤマハポピュラーソングコンテスト)の会場となったつま恋リゾートです。
八神純子、松崎しげる、中島みゆき、円広志、クリスタルキング、アラジン、あみん と、ポプコンから芽を出し活躍した歌手は少なくありません。
つま恋リゾートでは、当時使われていたヤマハのドラムが展示されていました。

 さて話を掛川駅に戻しましょう。
新幹線と在来線は同じ場所に駅があるのですが、それぞれ乗降口が違います。
近代的な新幹線側改札に対して、在来線は木造の趣のある駅舎です。
そして駅の前には、二宮金次郎の像が立っています。
それではその二宮金次郎にまつわる建物があるというので、行ってみることにします。

 その建物は、「掛川城」の東側にある「大日本報徳社」です。
報徳運動の元祖、二宮尊徳(一般に呼ばれる二宮金次郎)の指導を受けた岡田佐平治が掛川市倉真の出身だったことから、掛川に「大日本報徳社」を創りました。
報徳運動とは至誠・勤労・分度・推譲に対し尊徳の考えを示したもので、私利私欲に走るのではなく社会に貢献すればいずれは自分に還元されると説いた思想です。

 右に道徳門、左を経済門と刻まれている正門の先に、「大日本報徳社」の大講堂があります。
まずは右手に見える仰徳学寮で、入場券を買い求めます。
この仰徳学寮は、1884年竣工の木造平屋寄棟造の建物です。
もとは霞が関離宮の一部であったものを帝室林野局仮庁舎として使われていたものを、1938年に「大日本報徳社」に移築されました。
木造2階建ての大きな建物です。
目指す大講堂は「大日本報徳社」のなかでも中心的な存在で、1903年竣工の入母屋造の建物です。
和風の瓦葺きの建物でありながらも、窓の上部は半円形の孤を描き洋風建築を至る所に取り入れています。
公会堂として使われており、2階に上ると1階の演台と客席を見渡すことができます。
大講堂に隣接する仰徳記念館は、廊下が貫く木造平屋寄棟造の建物です。
ここも元は有栖川宮熾仁親王邸として使われていたもので、1884年に建てられたものです。
外に目を移すと、そこには淡山翁記念報徳図書館があります。

 これらの建物も元の名は「遠江国報徳社」と呼び、1875年の初代社長に掛川藩の大庄屋であった岡田佐平治が勤めました。
その後は衆議院議員の岡田良一郎が引き継ぎ、1911年に今の「大日本報徳社」に名前を変えます。
その後も政治家や教育者が、歴代の社長として名を連ねていきます。

 「大日本報徳社」の裏手には、「ステンドグラス美術館」があります。
鈴木政昭が、19世紀のイギリス、ヴィクトリア時代のステンドグラスを展示されています。
2015年に開館したばかりの、ステンドグラス専門の美術館です。

 それからは、明日のためにホテルに戻ります。
夕食に、この地方独特の食べ物がないのかを探します。
そこで見つけたのが「いも汁」です。
麦ごはんに自然薯を掛けて食べる、いわゆるとろろご飯のことです。
「いも汁」を食べることのできる何軒かの店を探しましたが、5月連休まではやっていましたが自然薯が採れずない夏場は出していないとのことです。
わずか2〜3週間の差で食べることができないのかと思いきや、そのうちの1軒だけは今でも食べることができそうです。
ホテルからも近いので、行ってみることにします。
「ビールといも汁」と頼むと、「いも汁」は量が多いので実物を見てからビールを頼んだ方が良いとのこと。
どんなものかと「いも汁」を注文して待つことにします。
5〜10分待ち、出てきたのは自然薯がいっぱいの皿とおかずや吸い物、そしてお櫃に入ったいっぱいの麦飯です。
話に聞いていた通り1合もの麦飯が入っています。
今日の自分へのご褒美のビールはお預けで、「いも汁」に専念することにします。
粘り気のある自然薯と麦飯の愛称はぴったりで、お腹いっぱいになったのでした。

 翌日は朝から「掛川城」を訪れてみます。
その途中で「大手門」に寄ってみます。
7間(約12.7m)の間口をもつ、入白壁の母屋造の櫓門です。
屋根のシャチ瓦が門の威厳を保っており、まるで通行人を睨みつけているかのようです。
門を潜るとそこには「大手門番所」が再現されており、ここに役人が詰めていたのでしょう。
それではここから「逆川」を越えて、「掛川城」の天守閣を目指しましょう。

 四足門を入ると、すぐに発券所があります。
ここで天守閣と御殿の両方に入ることができる入場券を購入します。
ここから天守閣までは、塀伝いに細い石段を上っていきます。
「掛川城」は、室町時代に今川義忠が重臣の朝比奈泰煕に命じて築城したとされています。
朝比奈泰煕に続き、朝比奈泰能、朝比奈泰朝が城主に就きます。
おりしも甲斐国の武田信玄、三河国の徳川家康から挟み撃ちに遭った今川氏真は、駿府を捨て「掛川城」に逃げてきます。
ここで徳川勢の包囲に遭いますが、城の防備は固く徳川はなかなか「掛川城」を手にすることができません。
ついに1569年には和議により、泰朝は「掛川城」を明け渡して相模国の小田原に退去してしまいます。
掛川の周りでは相変わらず武田と徳川のにらみ合いが続き、牧之原の諏訪原城や掛川城の南側の高天神城が戦いの舞台となります。
1590年に家康が関東に移封されると、「掛川城」には豊臣秀吉の直臣であった山内一豊が入場します。
一豊は「掛川城」に大規模な拡張を行い、天守など近世城郭として整備していきます。
1600年の関ヶ原の戦いの後には、土佐を与えられた一豊は高知城に移り住むことになります。
「掛川城」は多くの大名が入れ替わり城主を勤めますが、1854年の安政東海地震では城の多くが倒壊します。
二の丸御殿は1861年に再建されますが、天守は手を付けられることもなく、1994年の再建を待つことになります。

 天守閣から掛川市街を見渡した後は、下の方に「掛川城二の丸御殿」見えてきます。
それではこの御殿に向かいましょう。
政務を司る御殿は、京都二条城、川越城、高知城とここだけに残る貴重な城郭御殿です。
多くの畳の間が連なる巨大なお屋敷です。
「掛川城」の廃城と同時に御殿は、勤番所そして徳川家兵学校に転用されました。
その後も聚学校や女学校、掛川町役場や掛川市庁舎、そして農協、消防署などに用途を変え、今に至っています。

 「掛川城二の丸御殿」の外には、「二の丸美術館」があります。
ここではたばこ道具、印籠などのコレクションと、近代日本画が飾られています。
また「掛川城二の丸御殿」から「ステンドグラス美術館」「大日本報徳社」を越えた向こう側には、「竹の丸」があります。
江戸時代から続く葛布問屋を営んでいた松本家の住宅で、1903年の建物です。

 さて昨晩食べた「いも汁」も掛川の名物ですが、お茶も掛川を代表するものです。
郊外に少し足を伸ばすと、茶畑が広がります。
ちょうど一番茶を摘み終えたばかりで、自動販売機でもボトルの「掛川茶」を買うことができるのです。
街を歩き回り汗ばむ身体に冷たく冷えて香ばしい日本茶は、甘くもなく喉を潤してくれる心強い味方だったのでした。

 
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