にっぽんの旅 東海 三重 四日市

[旅の日記]

特殊狭軌電車と東海道 四日市 

さて今回は、三重県の四日市です。
四日市といえば、近代の負の遺産である四日市ぜんそくが思い出されますが、旧東海道の四日市宿のあった歴史のある場所です。

 まずは腹ごしらえに、食堂に入ります。
四日市の名物と言えば、「とんてき」です。
「とんてき」といえば、分厚い豚肉に黒っぽい濃いソースをからめたボリューム満点の食べ物です。
必ずにんにくが添えられ、良い香りと味を出しています。
今回寄った店はグローブ型の肉ではなく、食べやすく切られたものでした。
でも味は「とんてき」そのものです。
ソースの浸みた山盛りのキャベツも、肉に良く合います。
腹いっぱい食べて満足した後は、四日市のスタートです。

 さてここから、近鉄内部・八王子線に乗ります。
本日四日市を訪ねた一番の目的は、この電車に乗ることだったのです。
普通の電車と何が違うのかというと、線路の幅が極端に狭いのです。
線路幅は大きく分けて新幹線や関西の私鉄が使う1,435mm幅の標準軌、そしてJR在来線やそれ以外の私鉄が使う1,067mmの狭軌の2種類があります。
明治時代に海外から鉄道の技術を導入したときは、イギリスの狭軌がJR(当時の国鉄)に取り入れられました。
ところがここ近鉄内部・八王子線は、それらよりさらに狭い762mmの特殊狭軌と呼ばれるものです。
安価で鉄道が引けることから、一時は全国で盛んに敷設された特殊狭軌ですが、輸送力の増大に対応できないことから次第に減ってきました。
いまではこの特殊狭軌が使われているのは工事や森林軌道を除くと、黒部峡谷鉄道のトロッコ車両、ここ近鉄内部・八王子線、そして同じく三重県を走る三岐鉄道北勢線(2003年までは近鉄の支線)くらいです。

 では実際に、近鉄内部・八王子線に乗り込んでみましょう。
の3両編成の電車で、それぞれが違った色の車体をしています。
そしてもちろん単線です。
普通にホームの停まっているのですが、電車の幅が狭くかわいらしい車体です。
中に入ってみると車両の幅も狭く、座席に座ると対面すぐに知らない人が座っています。
一方車両前方に目を向けると、本来は進行方向左側にあるべき運転席が中央にあるのです。
そうこうしているうちに、電車が発車しました。
電車は速度を出すことなくのんびりと走るのですが、レールが短いせいでしょうか小刻みにカタンカタンと鳴るため、それほど遅いとも感じさせません。
無人駅をいくつか過ぎ、終点の内部駅は小さな駅です。
終点まで来た満足感を味わって、ここからはのんびり歩いて四日市に戻ります。

 旧東海道に沿って歩いて行きましょう。
「小古曽神社」を通り2駅先の追分駅を越えると、鳥居の奥に「日永の追分」の石碑があります。
桑名の一の鳥居に対し、ここに建てられたのがこの二の鳥居です。
ここは東海道と伊勢街道の分かれ道で、昔は茶屋や旅籠が並ぶ賑やかなところでした。
いまは多くの車が行き来しています。
近くには「東海道日永郷土博物館」があり、名産のうちわや内部・八王子線の資料が展示されています。

 泊駅を過ぎた辺りに、巨大な木を見ることができます。
道路に張り出した松で、「名残松」です。
昔は街道沿いに300本もの松がありましたが、今残るのはこの1本だけです。
その1本は、人々に大切に見守られているのです。

 その先には「日永一里塚跡石標」があります。
「西唱寺」まで歩いたときに、行き過ぎたことに気付き引き戻してきたのですが、石碑は民家の隙間の判りにくいところにあります。
かつては街道の両端に塚があり、その上に建っていたのですが、いまはうっかりすると通り過ぎてしまうような姿になっています。

 南日永駅の前に「日永神社」はあります。
伊勢七福神霊場のひとつで、境内には道標が祀られています。
「日永の追分」に1656年に建てられたものですが、1849年に新たな道標を建てた際に「日永神社」に移され、現存する日永の追分に関わるものとしては最も古いものです。
道標からは「京」「山田」「南無阿弥陀仏」の文字を読み取ることができます。

 この辺りの日永の街並みを見ながら、歩きます。
日永駅に近付いたころに「大聖院」があります。
東海三十六不動霊場の第29番札所で、738年に行基が開山したとされています。
見た目はこじんまりとしたお寺ですが、本尊の木造の「不動明王立像」は国の重要文化財にも指定されており、源頼義が定朝に刻ませたといわれる貴重なものです。

 ここで東海道を外れて、日和駅に立ち寄ります。
日永駅は、内部行きと八王子線の西日野行きが分岐する駅です。
ちょうど両方の電車が停まっていました(というより両者が揃うまで、実はずっと待っていました)
特殊狭軌というだけで特徴のある路線ですが、特に八王子線はそれに加えて日本で一番短い路線なのです。
わずか1.3kmという路線で、いまは西日野駅の1駅だけが存在します。
何故八王子線と呼ぶのかという疑問ですが、話は前身の三重鉄道にさかのぼります。
1912年に開業した三重軌道は、日永駅〜八王子村駅間を営業運転していました。
1974年の天白川の集中豪雨による水害で、日永駅〜八王子村駅間が不通になりましたが、翌々年に日永駅〜西日野駅だけは復旧します。
同時に西日野駅〜八王子村駅は廃線となりましたが、名称は八王子線のまま残っています。
鉄道経営も、三重軌道から三重電気鉄道、三重交通、近畿日本鉄道への移管、統合、吸収合併を経て、その間に採算性の問題から何度も廃止論議も持ち上がりながらも消え、今に至っています。

 その先には「大宮神明社」があります。
石灯籠の並ぶ参道の先に、拝殿はあります。
垂仁天皇の時代に倭姫命が天照大御神を伊勢に遷す際に、ここに留まったと伝えられています。

 赤堀駅の近くには「鈴木薬局」があります。
1852年に建てられた製薬業を営む旧鈴木製薬所の建物です。
通りからは窓にはめられた連格子が、美しい縞模様を模っています。
そして第四代勘三郎高春は、蘭学勃興の地である長崎に赴き、漢方を伝授されたといわれています。
いまも残る薬局です。

 その先の近鉄名古屋線の高架下を潜ると、浜田村の古い街並みが続きます。
道の先には四日市駅のビルが見え隠れしていますが、奥の四角いビルと手前の三角屋根の木造の建物がうまく調和しています。

 旧東海道は、ここから商店街に形を変えます。
アーケード街へと姿は変えましたが、人が行き来する通りはいまも同じです。

やがて左手に「諏訪神社」が見えてきます。
「諏訪神社」は、1202年に信州の諏訪大社の御分霊をこの地に勧請し創祀されたものです。
建御名方命(たけみなかたのみこと)と八重事代主命(やえとしろぬいしのみこと)を主祭神とし、四日市・浜田の町とともに栄えてきました。
また東海道五十三次の宿駅として賑わった四日市にあって、道中の多くの旅人が参拝したと言われています。

 四日市名物のなが餅屋を通り過ぎたところに、「三滝橋」はあります。
江戸から東海道を今回とは逆方向に歩いて来た者は、この「三滝橋」を渡ると四日市宿に辿り着いたと安心したことでしょう。
安藤広重の描いた三重川はこの辺りの風景で、当時は夕涼みのできる風光明媚な場所だったそうです。

 歩き疲れて四日市に戻ったところで、本日2回目の「とんてき」です。
何度食べても飽きのこない「とんてき」に、取りつかれた1日でした。

 
     

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