にっぽんの旅 東海 三重

[旅の日記]

藤堂高虎が築いた町 津 

 三重の県庁所在地、そして最も短い地名である津を訪れています。
そしてここは、津新町駅です。

 津新町駅から、北東の「津城址」を目指して歩きます。
三重県庁が津駅にあるのに対して、津市役所はここ津新町駅にあります。
1駅違いとはいえ、うまく役割を分担しているようです。
「津城址」に行く手前には、「高山神社」があります。
この神社は、津城主であった藤堂高虎が祀られています。
元々は藩主ゆかりの兜を津城内に祀っていました。
そして1877年に、一般人も参ることがりできるよう津公園内に社殿を建立します。
1903年には津城本丸に遷座するものの、戦災で焼失してしまいます。
そこでその後に復興され、1969年に内堀埋立地に社殿を遷座して現在の姿になっています。

 それでは、いよいよ「津城址」に入って行きましょう。
「お城公園」となっている「津城址」ですが、復興された角櫓だけが残されています。
「津城」は、長野氏の一族の細野藤光が安濃と岩田の両河川の三角州に小規模な「安濃津城」を構えたことに始まります。
1568年には織田信長の伊勢侵攻によって織田掃部頭の津田一安が入城し、翌年には信長の弟の織田信包が入城しています。
信包は城の城郭を拡充して1580年には5層の天守閣をもつ「津城」を築城し、石垣と周りに堀を巡らせ、本丸、二の丸、三の丸を整備します。
このことから、「津城」は低湿地という立地条件でありながら、防御には堅固な城となったのです。
また信包の城の立て直しによって、津は城下町として大きく発展することになります。
そして富田氏が城主であった1600年に、その時勃発した「関ヶ原の戦い」で西軍の攻撃を受けて焼失してしまいます。

 その後は、1608年の藤堂高虎が今治からの移封をきっかけに、1611年にに大規模な改修を行います。
北側の石塁を高く積み直し、その東北と西北の両隅に櫓を造ります。
しかしこの時に、天守閣は造られることがありませんでした。
城の周囲には武家屋敷を配置し、伊予から連れてきた町人たちを住まわせるための伊予町を造ります。
また参宮街道を城下に通し、津を交通の要所として津の町の整備と繁栄を図りました。
2代藩主高次はそれをもとに城下を整備、明治維新まで津は32万石の城下町として栄えてきました。

 城内西側には、日本庭園が広がっています。
そして西の道路側に真っ赤な門が建っています。
1920年に10代藩主となった藤堂高兌は、藩士とその子弟を教育するための藩校である「有造館」を設立します。
この門は「有造館」の講堂の正門だったものです。
1871年に「有造館」は廃校となったものの、師範学校、津小学校、入徳幼稚園などの正門として使われてきました。
戦災にも耐え県立図書館の正門として使われるものの、1967年の移設によりこの門だけが残されてしまいます。
1971年からは、この地に建てられて「津城址」の憩いの場としてその姿を残しています。

 さてここからは、近くの店に入り食事とします。
津の特徴的な食べ物といえば、「津ぎょうさ」でしょうか。
早速注文してみます。
そして出てきたのは、大きな餃子です。
普通なら1皿に5〜6個の餃子が並ぶのですが、ここの餃子は1つだけです。
軽く揚げているのか、回りはカラッとした食感があります。
1つでも結構の食べごたえがあるものです。

 食後は、今度は線路の西側に移ります。
ここから、津が生んだ谷川士清の旧宅を訪れてみます。
それは駅から1kmほど離れたところにあります。
「津城」と「伊賀上野城」を結ぶ「伊賀街道」沿いに、「谷川士清旧宅」があります。
八町という地名で、伊勢別街道に向かう分岐点にもあたる場所です。
木造瓦葺きの「恒徳堂」と呼ばれる町医者が、士清の家です。
谷川家は代々の医者の家で、谷川義章の長男として1709年に生まれました。
父 義章は「順端」という医者の号をもち、評判の良い名医だったそうです。
士清は13歳の時に京都に行き、医者であり学者であった松岡玄達のもとに入門しています。
「養順」という医者の号を得た士清は1735年に津に戻り、父の跡を継いで医院を開きます。
その傍らで国学を学び、本居宣長の先輩に当たります。
「日本書紀」をわかりやすく解説した「日本書紀通証」を20年かけてまとめ、その中の付録で動詞の活用形を示した「和語通音」や辞書の原型となる「和訓栞」を作り上げます。
しかし1776年に、病でこの世を去ってしまいます。

 近くの「谷川神社」では士清が祀られており、「反古塚」の石碑が建っています。
これは士清が亡くなる直前に、自分の書いた不要なものや下書きを整理するために埋めたものです。
ところが、その碑を建てたところに美しい玉虫が3日間も続けて集まったことから、「玉虫塚」とも呼ばれています。
そして士清の墓は、「谷川神社」の隣の「福蔵寺」という小さな谷川家の菩提寺に安置されているのです。

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