にっぽんの旅 東海 三重 名張

[旅の日記]

名張藤堂家が治めた名張 

 三重県と奈良県との境に位置する内陸の町 名張を本日は訪れます。
743年の墾田永年私財法が発布されて以降、東大寺の荘園として発達したところです。

 近鉄電車で名張駅に到着しました。
高速バスも停車する駅前は、駅にやって来た車が停車しています。
それでは駅前の通りを、ブラブラと歩いて行きましょう。
5分ほど進むと、白壁で囲まれた場所に「名張藤堂家邸」があります。

 名張藤堂家は、藤堂高虎の養子 藤堂高吉を祖とする家系です。
子がなかった藤堂高虎は、丹羽長秀の三男の高吉を養子に向かえます。
ところが1601年に高虎に実子の高次が生まれると、高吉からは後継者の座を奪われ「名張藤堂家」として分家します。
とは言っても高次とは年が大きく離れており実力が上の高吉は、丹羽秀吉にもかわいがられいましたので、高次方の本家にとっては気になる存在だったのです。
高虎が亡くなった時も、死の知らせを高吉にはわざと伝えられなかったとも云われています。
そして高虎の死後は、高吉が高次の家臣として仕えるようになります。
高次は幕府に高吉の参勤交代の免除を申し入れ、自分が高吉の分まで行うことで受け入れられます。
しかしこれも、高次が高吉を支配下に置くことを示したにすぎません。
そして日に日に両者の対立が表面化して来るのです。
1734年に藤堂長熙が、高吉の実家である丹羽氏を通して幕府に独立を働きかけ、江戸に向かいます。
ところがこれが本家の知るところとなり、一触即発の状態になってしまいます。
結局は、横田太右衛門、小沢宇右衛門、七条喜兵衛の3名が、主君の知らぬところの行為として自害します。
長熙は隠居を命じられ、これが「名張騒動」とよばれるものです。
これ以降、高吉家には本家から横目付が派遣され、名張藤堂家は常時監視下に置かれるようになるのです。

 「名張藤堂家邸」の裏手には「寿栄神社」があります。
立派な門構えは、かつての名張陣屋の正門だった「太鼓門」です。
番所には出格子が付く間口16mの立派な武家屋敷門です。

 ここからが街中の路地を歩いてみます。
豊かな水が流れる水路が通る街並みは、風情があります。
都会では珍しくなった銭湯「玉の湯」も、ここには残っています。
そして通りと通りの間を結ぶ路地は、家の間の隙間を利用した人ひとりがやっと通れるだけの広さのものです。
しかしこの路地を巧みに利用すれば、名張の町をうまく行き来することができるのです。

 さらに歩くと、杉玉の吊るされた家屋があります。
「木屋正酒造」で、1818年から続く老舗の酒屋です。
初代大西庄八が造り酒屋「ほてい屋」を譲り受け、以前営んでいた材木商の屋号「木屋正」を使い酒屋を営業します。
「高砂」「鷹一正宗」の酒を製造し、地元で販売していました。
6代目蔵元は新たに「而今」ブランドを立ち上げ、全国に卸しています。

 その隣には「栄林寺」があります。
「栄林寺」の先の細い路地を入っていきます。
家の隙間のような細い道の先には、「江戸川乱歩生誕地碑広場」があります。
江戸川乱歩はここ名張町(現名張市)で1894年に、名賀郡役所書記の平井繁男・きくの長男として生まれました。
武士の家柄であった平井家は伊豆の伊東の出身で、乱歩の祖父の代まで津藩の藤堂家の藩士として勤めました。
生まれたのは名張ですが、2歳の時には父の転勤に伴い亀山に、そしてその翌年には名古屋に移り住みます。
その後も引越しは続き、生涯行った引越しは46件にも及びます。

 その先には、尖った屋根を持つ塔を備えた建物があります。
1877年創業の「川地写真館」で、現存する建物は3代目の川地覚が1921年に店舗として建築したものです。
木造2階建ての建物で、塔の部分は3階の高さがあります。
パラペット隅飾りを備えた洋風建築です。
モルタルの外壁だったのですが、後に1〜2階はタイルが貼られて今の姿になっています。

 ここからは、名張川に沿って歩いてみます。
「やなせ宿」は、明治時代の町屋です。
奈良県大宇陀にある薬商細川家の支店として、名張に建てられたものです。
細川家は藤沢薬品(後のアステラス製薬)の創始者である藤沢友吉の母方の実家です。
大宇陀の細川家の2代目治助はここを別邸として使用し、次女の満津の長男 福守友吉が丁稚奉公で大阪に行くまでの9年間を過ごしたところです。
虫篭窓などを今に伝える典型的な町屋なのです。

 「えべっさん」の愛称で親しまれている「蛭子神社」は、八日戎が催される場所です。
七福神が町内を練り歩き、山の幸と海の幸の物々交換が行われたと伝わる「ハマグリ市」が催され多くの露店が並びます。
そしてここには、「倭姫遷宮伝説」が伝えられています。
日本書紀によると、天照大神鎮座に最もふさわしい土地を探すようとの命を受けた倭姫命は、大和、近江、美濃の各地を転々とし、伊勢度会の地を探しあてて神宮を創建したということになっています。
ところが「倭姫命世記」に倭姫命の詳細な巡歴行程が書かれおり、それによると名張の市守宮、神戸の穴穂宮(現神戸神社)、柘植の敢都美恵宮(現都美恵神社)に足を延ばしたとの記載があります。
名張の市守宮がどこに当たるのかということには諸説ありますが、箕輪中村の三輪神社(現瀬古口の稲荷神社)とここ蛭子神社のいずれかとされているのです。

 そしてその隣には、川魚料理の「清風亭」があります。
ここには1914年創業の店で、鰻が自慢です。
江戸川乱歩も良く訪れたということで、乱歩や松本清張の色紙が飾られています。

 先を進みましょう。
石鳥居を潜ると参道にずらりと並ぶ灯篭が爽快な「宇流冨志禰(うるふしね)神社」があります。
宇奈根命(うなねのみこと)を主祭神に祀るこの神社は、地域の氏神さまとして親しまれています。
水や穀物の神様である宇奈根命神社ですが、御神体である赤岩は名張川のうねりのある側に置かれています。
川がうねると稲穂のうねるが由来で「うなね」となったと伝えられています。
1580年に起こった「天正伊賀の乱」で社殿は焼かれてしまいますが、767年に武甕槌神が鹿島神宮より大和への遷祀の際にここに留まったとの記載もあり、それ以前から存在していた可能性があるのです。

 こうして名張の町をぐるりと巡り、名張駅に帰ってきました。
駅前の和菓子屋では、「名張饅頭」が売られています。
ここはひとつ購入し、帰りの近鉄電車の中で味わうことにします。
かくして名張藤堂家から始まり、古い町並みを味わうことのできた名張だったのでした。

 
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