にっぽんの旅 東海 三重 松阪

[旅の日記]

伊勢の玄関 松阪 

 本日の訪問先は、三重県の松阪です。
伊勢の参宮街道として栄えたところです。
そして松阪牛でも有名な町を、本日は散策します。

 最初に訪れたのは、本居宣長の名前を取る「本居神社」です。
本居宣長については、後ほど記念館で詳しく調べるとして、まずは神社に向かいます。
鳥居を潜り石段を登った四五百(よいほ)の森に、神社はあります。
現在は「本居宣長ノ宮」と呼ばれ、学問の神として親しまれています。
本殿横には「驛」の文字が入った石碑があります。
その時はこれが何を意味するのかが判りませんでしたが、後ほどこの謎が明かされるのです。

 「本居神社」の隣には、垣根を隔てて「松阪神社」があります。
古くは「意悲(おい)神社」として、商売繁盛に御利益のある稲荷様を祀っていました。
明治時代の神社合祀令により、17の神社の合祀祭神として祀られたことより、「松阪神社」と改称しました。
そのことにより、現在では三十五柱の神様が祀られており、松阪の街の守り神となっています。

 そばには「御城番屋敷」があります。
ここは、紀州藩士20人が松坂御城番職に就いた際、藩士および家族の住居として生活した長屋です。
東棟に10戸、西棟には9戸が並ぶ桟瓦葺の平屋は、間口5間、奥行き5間を基準として、整然と建っています。
そのうちの1軒を、見学することができます。
「笑門」のしめ縄が飾られた戸口をくぐると、土間に続いて和室が並び、当時のままの姿で残っています。
壁に吊るされた紋の入った着物は、当時のものでしょうか。

 「御城番屋敷」の奥には「松阪工業高校」があり、その敷地内に「赤壁」と呼ばれる赤い色をした建物があります。
実験に用いる硫化水素の影響を受け黒変することがないように、壁を朱色に塗装されていたことから、そう呼ばれていました。
校庭には、自由に出入りができます。

 さて「御城番屋敷」まで戻り、その先の坂を登って「松阪城跡」に出ます。
1644年の台風で天守閣は倒壊し、1877年には二の丸御殿も火事により焼失し、現在は城址公園になっています。
松阪の歴史は、安土桃山時代にさかのぼります。
1584年、近江国日野城6万石の蒲生氏郷が伊勢国12万3千石を与えられ、松ヶ島城に入城しました。
ところが城下町として発展性が見込まれる四五百森に、城を移し今の「松阪城」となります。
その後、服部一忠、古田重勝と城主が代わり、1619年には紀州藩領となって、勢州領18万5千石を統轄する城代が置かれました。

 城内には、「本居宣長旧宅(鈴屋)」および「本居宣長記念館」があります。
「本居宣長旧宅」は、祖父小津三四右衛門定治が隠居所として建てたもので、宣長も72歳で亡くなるまでをここで過ごしました。
先祖は代々伊勢国の北畠家の家臣であり、本居家初代の本居武秀は蒲生氏郷に仕える武将でした。
その子の七右衛門の代から氏を小津と改めて、松坂で木綿問屋を営み豪商として栄えていました。
一方、宣長は11歳のときに父三四右衛門定利と死別し、商いは義兄の宗五郎定治が継ぐことになります。
しかし、小津家の家運は次第に傾き始め、母かつは宣長とその弟と妹の5人で魚町の隠居所に移り住みます。
宣長はその後、京都で医学を学びます。
義兄の死後、宣長は小津家を継ぐものの商いは止めて、同時に氏も祖先の本居に戻します。
そしてこの家で町医者を営むかたわら、「古事記」の解読を始め、有名な「古事記伝」を約35年もの歳月が費やし完成させます。
2階の書斎の柱に掛鈴を吊り下げ、執筆活動の息抜きにそれを鳴らして音色を楽しんでいたということです。
宣長が53歳のときに物置を改造して造った書斎は、「鈴屋(すずのや)」と名付けられました。
彼が愛好した鈴は「本居宣長記念館」にも展示されており、先の「本居神社」の石碑は彼が収集していた「驛鈴」だったのです。

 城内には、他にも「歴史民俗資料館」があり、江戸時代の松阪の伊勢に至る街道筋の様子が、再現されています。
1912年建設の瓦屋根左右対称の木造の建物はまるで民宿のようで、親しみやすい姿をしています。

 ここからは、城を離れて海側の城下町を散策します。
市役所を過ぎまず最初に訪れたのは、「長谷川家」です。
木綿商として財を成した長谷川治郎兵衛で、「丹波屋」を屋号としています。

 その先には「本居宣長の生家」があり、中を見学することができます。
宣長の生家は大きいわけでもなく、意外庶民的なにおいがして、共感がわけるのです。
阪内川の橋には、七夕飾りがされていました。

 「長谷川家」から海側へ1筋下ったところに、「松坂商人の館」があります。
江戸時代になると、松阪は商人の町として大いに栄えます。
「小津清左衛門」のそのうちのひとりです。
小津家は、伊勢国司北畠家の一族の木造家に仕え、1653年に紙店「小津屋」を開業します。
その後も木綿店「伊勢屋」、そして江戸にも進出します。
松阪において江戸店持ちの中でも筆頭格に挙げられ、三井、長谷川、長井とともに紀州藩の御為替御用を命ぜられるまでになります。
見学できる屋敷も立派で、多くの部屋と中庭、そして奥には蔵が敷地内に配置されています。
当時の羽振りのよさを見て取ることができるのです。

 「松坂商人の館」の前の通りは、旧伊勢街道です。
今では国道から逸れてひっそりしていますが、道端には「伊勢道」の看板がかかっています。

 少し離れたところに、三井財閥の基の礎を築いた「三井高利」の旧家があります。
いわば、三井グループの発祥の地となるところです。
その昔、高利の祖父 藤原右馬之助信生が、京都を離れ近江に移り住んだときに、3つの井戸の中から財宝が見つかったため、これを祝して姓を「三井」に改めます。
しかし男子に恵まれなかった。源氏の流れを汲む守護大名 六角佐々木氏から養子を迎えることになります。
それが三井高久です。
それ以来、三井家の名前には「高」を付けるようになります。
高久は琵琶湖の東にある鯰江に居城を構えますが、織田信長が近江に攻め入り六角氏を滅ぼし、三井一族は近江から伊勢の地に逃れます。
一族は、津、松阪などを流浪したのちに、最後に松阪の近くの松ケ島を安住の地とします。
松阪は戦国大名の蒲生氏郷が開いた町ですが、当の蒲生氏も三井家と同じ蒲生氏に仕えていたのですが、六角氏が信長に敗れたときに信長の家来になって生き延びる道を選択します。
一方の高利の父 三井則兵衛高俊は武士を捨て町人となり、松阪で質屋や酒・味噌の商いを始めます。
高俊と母 殊法の間に生まれた8番目の子が、高利なのです
武士の出である高俊は商いに関心が薄く、家業は伊勢の大商家の娘であった殊法が取り仕切っていました。
商才に富み、信仰心が厚く、倹約家でもあり、優れた母であり商人である殊法の姿が、のちの高利にも大きな影響を与えます。
高利は殊法から渡された10両分の松阪木綿を手に、14歳で一路江戸へ旅立ちます。
高利が江戸に「越後屋」を開くのはこれより38年後のことであり、さらには「三井」と「越後屋」の名をとって老舗デパートの「三越」へと発展していくのです。

 ここからは南に少し離れたところですが、今回是非行っておきたいところがあります。
「小津安二郎青春館」は、映画監督 小津安二郎の暮らしていた少年から青春時代の品々を展示しています。
建物は映画館を模して、当時を再現したものです。
小津安二郎と言えば、「東京物語」や「秋刀魚の味」などで有名ですが、少年時代は相当のワルで周りを困らせていました。
彼の自由奔放な生き方と、松阪で養いその後の映画製作に活きる感性を、「小津安二郎青春館」では映像で見ることができます。

 そして最後は「松阪牛」でしょう。
せっかく松阪に来たのですから、食べずに帰るわけにはいきません。
鉄板に乗った肉に、グツグツを沸騰したソースが飛び跳ねて出てきます。
もうこうなったら無言で食べまくるのみです。
ナイフを入れても柔らかく力を入れなくとも切れる肉は、当然のことながら口の中でもふわっと広がり溶けていきます。
量の割にはすんなり喉を通っていくので、食べ終えたときは思い出したかのようにお腹が一杯であることに気付くのでした。

 ぶらっと寄った割には、見どころいっぱいの松阪でした。

 
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