にっぽんの旅 東海 三重 桑名

[旅の日記]

桑名のハマグリ 

 今日散策するのは、三重県の桑名です。
室町時代には商人たちによる自由都市が形成され、堺、博多、大湊と並ぶ日本屈指の港湾都市だったところです。

 近鉄の桑名駅に降立ち、駅前の通りを東へ進みます。
かつては市電が通っていたという通りですが、今ではその面影はありません。
道の両側には「貝」の文字の入った店を数多く見つけることができます。
ハマグリを使った佃煮屋さんです。
このあとそのハマグリを使ったお昼を頂くことも、今回の散策の目的です。

 「海蔵寺」は、1753年に幕府から揖斐・長良・木曽三大河川工事を命ぜられた薩摩藩が、巨額の経費と多くの犠牲者が出たことから、工事総奉行の平田靭負はその責任を取って自害してしまいます。
後に語り継がれる「宝暦治水事件」です。
これら義士の墓所のうち、21墓がこの「海蔵寺」に埋葬されています。

 さらに東へ進むと、寺道通りに出会います。
ここから左へ向きを変えて、北上します。
すると右手に対岸が見えないほどの大きな川が見えてきます。
中州を挟んで、揖斐川と長良川の合流地点です。

 そして岸には小さな神社が祀られています。
「住吉神社」です。どこかで聞いたことのあるような名前です。
そう、桑名は伊勢湾と木曽三川を利用した舟運の拠点として栄え、「十楽の津」と呼ばれた商業都市でした。
ここ住吉浦は、これら廻船舟の溜まりで、航海の安全を祈るために大阪の住吉大社から勧請して建立されたものなのです。

 その先には、「六華苑」があります。
ここはかつての諸戸清六の邸宅で、1913年に建てられました。
清六は米の仲買業を興しますが、当時の持ち物は二十石積の船一隻のみと千両以上の借金。
寝る間も惜しんで働いたことと、明治維新を商機を利用して事業を拡大し、政府要人や岩崎弥太郎などの信頼を得ていきます。
そしてついには、大蔵省御用の米買付方まで上り詰めることになります。
「六華苑」は、和館と洋館から成り、互いに行き来ができます。
4階建ての塔屋をもつモダンな洋館と、落ち着いた和館が対照的です。
そしてその前は池泉回遊式の日本庭園が、広がっています。

 再び住吉神社に戻り、川沿いを歩きます。
鳥居の立っている辺りが、「七里の渡跡」です。
江戸から旅立った東海道は、熱田・宮の渡しから先はここ桑名の渡しまでが、海上七里の海上路となります。
そして当然のことながら、鳥居を出たところから東海道が続きます。

 また「七里の渡跡」からは、旧桑名城の三之丸堀が続いています。
三河湾から入ってきた船が停泊している光景も、不思議なものです。
ここから1筋入った本町辺りは、何件かの料亭が並んでいます。
お昼時で手ごろな値段で和食の食べられるところを、探してみます。
そのうちの1軒で、桑名名物のハマグリの食べられることろを見付けました。
「その手は桑名の焼き蛤」の句で有名なハマグリを、温かいうどんで食べてみることにします。
頼んだのはハマグリうどんとちらしずしのセットです。
関西風の澄んだうどんの出汁にハマグリが入っており、塩加減が程よい風味になっています。
底冷えのするこの時期の散策には、身体の芯から温まる有難い食べ物でした。

 食事も終わり、この辺りをブラブラすることにします。
「桑名宗社(春日神社)」には、青銅鳥居が出迎えてくれます。
「東の川口、西の桑名」と言われるように、桑名には30社余りの鋳物工場があります。
本多忠勝が桑名藩主となった1601年に、鉄砲の鋳造をはじめたのが起源とされています。
その先には、松平定永によって寄進された三間一戸・重層入母屋造りの楼門があり、正面左右の左大臣・右大臣と、裏側には金剛力士像が安置されています。
拝殿は、右側の桑名神社、左側には中臣神社があり、2社合わせて春日神社と呼ばれています。

 春日神社の鳥居の方向に戻りましょう。
桑名城跡は「九華公園」として整備され、お堀には朱色の橋が架かっています。
公園内には、「護国守国神社」があります。
1784年に白河(現福島県白河市)城内に松平定綱を祀ったのが始まりで、1823年に桑名へ移封にともなって「護国守国神社」も桑名城本丸に移ってきたのです。
戦災を免れ、拝殿・社務所も戦前の姿を今に残しています。

 桑名駅に戻ると、帰りの電車が来ていました。
従来型の近鉄特急ビスターカーが停まっていることに、思わず喜んでしまいます。
自分が乗るわけでもないのに、ワクワクするのは何故なのでしょうか。

 で、これで帰路に着くことにします。
ここからは普通電車でのんびりと帰ることにします。
こうして、桑名の1日は過ぎていったのでした。

   

   
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