にっぽんの旅 東海 三重 伊勢市

[旅の日記]

伊勢神宮外宮と河崎の問屋街 

 三重と言えば「伊勢神宮」で、五十鈴川駅にある皇大神宮(内宮)は有名ですが、伊勢市駅の豊受大神宮(外宮)は意外と素通りする人も多いのではないでしょうか。
実は何回も訪れたことがある内宮に対し、今回が初めての訪問なのです。
本日は外宮のある伊勢市を訪れ、海側の古い街並みも散策してみることにしましょう。

 今回は近鉄の宇治山田駅で降り、外宮までをブラブラと歩いて行きます。
伊勢市駅の方が近いのですが、宇治山田駅の立派さにひかれてあえてこちらで降りたのです。
ここから外宮までは、歩いても10分余りで着きます。

 外宮の入口からは、内宮と同じように橋で始まります。
表参道火除橋を渡ると、右手に手水舎がありその先に木の第一大鳥居が待っています。
広い参道に敷かれた砂砂利を踏みしめながら、次に現れる第二大鳥居を潜ります。
鳥居の先には、神楽殿を目にすることができます。
まっすぐ行くと御正殿があるのですが、左手の風宮、土宮、そして加賀宮を先に回ります。

 そしていよいよ御正殿です。
その手前には同じ広さの空き地である古殿地があります。
これは20年に1度行われる式年遷宮、つまり神社の建て替えのための引越し用に同じ建物を建てるための敷地です。
大御祖神としての天照大御神(あまてらすおおみかみ)を祀る内宮に対して、外宮には衣食住の守り神である豊受大御神(とようけのおおみかみ)を祀っています。
御正殿の前にも鳥居があり、これから先は写真を撮ることができません。
外から撮ったもので、内部を想像してください。

 「伊勢神宮」外宮のお参りを終えると、その前にある「赤福」で一休みします。
「赤福餅」が有名ですが、夏に赤福氷があるように、冬場は赤福ぜんざいがあります。
小豆が沈む甘い汁に焼き立ての餅が入っています。
身体が芯から温まります。
ぜんざいが甘いので、普段は自ら口にしない塩昆布と梅干が美味しく思えます。

 少し歩くとJRと近鉄の伊勢市駅にたどり着きます。
駅前にも神宮の参道方向に、大きな鳥居が建っています。
そして目指すは、駅の反対側の「河崎町」です。
ところが線路を越える通路が見当たりません。
探せばよかったのですが、幸い今回は近鉄線に乗り降り自由のフリー切符を持っています。
線路を渡る通路を探すよりも、この切符でホームに入り反対側の改札で出る方が、手っ取り早そうです。
フリー切符の有効活用ができたのでした。

 「河崎町」へは駅から1km程度離れたところにあります。
伊勢市の町の中を歩いて行きます。
よく見ると家々には、年の瀬というのに正月用のしめ縄が飾られています。
「蘇民将来子孫家門」と書かれたしめ縄で、どうやらこの地区では1年中飾ることが慣習だそうです。
その「蘇民将来子孫家門」に込められた意味は、次のような言い伝えがあります。

昔、伊勢の地を旅した須佐之男命が、夕暮れに泊まるところがなく困りはてていました。
この地には将来兄弟という二人が住んでおり、弟の大変裕福であった巨旦将来に宿を頼みますが、これを断られてしまいます。
しかし兄である大変貧しい暮らしをしていた蘇民将来はこの頼みを快く引き受け、貧しいながらできる限りのもてなしをして一夜を過ごしました。
須佐之男命はこれを大変喜び、一宿の恩返しとして茅の輪を与え、「後の世に疫病あらば、蘇民将来の子孫と云いて、その茅の輪を腰に付けたる者は、難を逃れるであろう」と言い残して行きます。
以来、蘇民家は後の疫病が流行っても免れ、代々栄えたということです。

この故事にあやかって、「蘇民将来子孫家門」の護り札をしめ縄に付けて、一年中門口に飾って無病息災を願うことを今に受け継いでいるのです。
そういえば、鳥羽の町を歩いた時も「笑門」と書かれたしめ縄が飾られていたことを思い出します。

 やがて周りの景色が、変わってきたことに気付きます。
周囲の壁こそ赤っぽい板で覆われていますが、通りの左右には明らかに蔵が並んでいます。
古い街並みを順に観ていきましょう。

 砂糖問屋を営んでいた「榎本商店」は、1894年の建造です。
敷地内には6棟の蔵があり、その中の1棟は煉瓦造りの珍しいものです。
通りから見ると、母屋を挟んで左右にも土蔵が並んでいます。
土蔵には、しっかりとした鉄製の扉が取り付けられているのが判ります。
母屋の屋根は、外に行くほど傾斜が緩くなる「反り」の形状をしています。

 「木野商店」は、1877年創業の履物問屋です。
母屋は1911年のもので、古くから桐下駄の製造販売を行ってきました。
畳敷きの帳場は、昔の商家の姿そのままです。
今でも座売りをしている貴重な建物です。

 その先にある「村田家」は、雑貨問屋「角仙」の本宅です。
ここも6棟の蔵がある旧家ですが、当時は16棟もの蔵を所有していたということですから驚きます。
切妻妻入り母屋が、蔵と並んで建っています。
屋根瓦に乗っている隅蓋は、仙人がガマガエルの背中に乗ったおもしろい形をしています。

 ここで「河邊七種神社」があります。
元は「河崎社」と呼ばれ河崎の産土神を祀っていましたが、明治時代に須佐之神ほか10座を合祀して現在の形になりました。
夏の天王祭では、伊勢音頭の本歌である河崎音頭も繰り広げられます。
またこの辺りはかつては魚市場があり、水揚げされた海産物が並び伊勢の台所として賑わっていました。

 旧家を利用した古本屋があります。
廻漕問屋を営んでいた「辻村家」の建物で、1806年に建造されたものです。
3代目の辻村逸漁は三浦樗良とも交流があり、自身も俳人として名をはせました。
その後「佐藤家」が家を買い取り、ここで医院を開業していました。

 車の往来の激しい通りを越えて、さらに河崎の中心に入っていきます。
「西山家」は、1893年創業の酒問屋です。
酒問屋「川七」に奉公に入っていた初代が、主家の建物を譲り受け酒問屋「川元」を興します。
母家が火災にあいますが、残った外郭部分を活かして再建されたものです。

 それでは、斜め向かいの「伊勢河崎商人館」に入ってみましょう。
ここは江戸時代中期に創業の酒問屋「小川商店」の建物を伊勢市が修復し、川崎の歴史や文化の交流のための拠点として整備したものです。
明治にはサイダーの製造を行っており、建物に入ると並べられたそのサイダーに出会います。
つい最近の1999年まで営業していたものです。
600坪の広大な土地には、7棟の蔵と2棟の町屋を有しています。
そのうちの一つは、「商人蔵」としてカフェになって利用されています。

母家は和室、茶室、そして中庭を見て回れます。
壁に隙間なく寄せられた階段箪笥を体を小さくして上ると、2階からは街並みが眺められます。
格子窓を通して、道向こうに並ぶ蔵を見渡すことができます。

 最後に立ち寄ったのは、「河崎 川の駅」です。
通りから見ると蔵を備えた普通の町屋なのですが、裏に回ると船着き場を有する建物であることが判ります。
勢田川の水運で栄えた河崎には、その利便性を活かして多くの問屋が立ち並ぶ一大問屋街を形成していきます。
この「河崎 川の駅」も川から直接荷下ろしができる蔵でした。
白いデッキは近年観光のために造られたもので、伊勢市内を入っていた路面電車の駅舎をモチーフにしています。

 宇治山田駅から伊勢市駅周辺を歩いた1日です。
最後にJRで二見駅まで移動し、「二見の夫婦岩」をみてから帰ります。
駅前に広がる「伊勢神宮外宮」、そして河崎の街並みを思い出に、近鉄電車に乗って帰路に就いたのでした。

旅の写真館(1) (2) (3)