にっぽんの旅 東海 岐阜 墨俣

[旅の日記]

墨俣の一夜城 

 岐阜県の墨俣、ここが今回の散策の地です。
大垣からバスで向かいます。
どんな所かとワクワクしながら乗っていたのですが、停まった墨俣はごく普通の町の中のバス停です。
すぐに「墨俣城」への案内板に気付き、導かれるままに歩きます。

 最初に目に入ったのは「墨俣神社」から東に広がる寺町です。
ここから「満福寺」「光受寺」「本正寺」と寺院が東西に続きます。
「満福寺」は986年に天台宗の伽藍として創建されましたが、その後に祐照法師が浄土真宗に改宗し、竿の際寺号も「熊谷院」に改称していました。
室町時代には豊臣秀吉から庇護され、1581年に境内を現在地に移しました。
江戸時代の最盛期には96寺を擁する中本山として信仰を広め、「墨俣御坊」とも呼ばれて慕われてきた寺院です。
一方「光受寺」は、天台宗「法蔵寺」として義兼によって創建されます。
その後は法弟正圓、正龍、正善が順に継ぎ、寛永年間には天台宗から浄土真宗に改宗します。
蓮如上人に帰依し、寺号も「廣受寺」と改称します。
そして1633年に、この場所に移ってきたのです。

 ここから1筋北の通りに移ります。
ここに脇本陣があります。
美濃路墨俣宿にあった脇本陣跡で、1891年の濃尾震災で倒壊します。
今建っているのは、脇本陣を再建したものです。

 その先の長良川沿いには、本陣が建っていた跡があります。
建物はありませんが、その横には「美濃路墨俣宿渡船場常夜灯」の石灯籠が建っています。
長良川を行き来する船「墨俣の渡し」があり、この辺りは栄えたところです。

 道の本陣跡を挟んだ反対側には、「墨俣宿」の石碑が建っています。
その奥には鳥居があります。
ここから長良川に沿って川辺の堤防を歩きます。
桜の開花が間近で、屋台の準備をしている中を歩いて行きます。

 その先に見える城が「墨俣一夜城」です。
築城の詳細は不明ですが、長良川が流れる墨俣は古くから交通上の要所で、戦略上で重要視されてきました。
そのためしばしば合戦の舞台となってきました。
1566年の織田信長による美濃侵攻にあたって、木下藤吉郎は上流から流した材木を組み上げ、一夜にして城を築いたと伝えられています。
木下藤吉郎はのちの豊臣秀吉で、農民から天下統一まで上り詰めた出世の足掛かりとした場所です。
長良川に注ぐ犀川に架かる橋を渡って「墨俣一夜城」の敷地に入って行きます。
城の入り口には、秀吉の出世にあやかって願をかけた「出世ひょうたん」が吊るされています。

 それでは、「墨俣一夜城」に登ってみましょう。
城内には、つりびなが飾られています。
城からは岐阜の金華山を見渡すことができます。

 城の敷地内には「白鬚神社」があります。
そして「白鬚神社」の拝殿右手には豊臣秀吉を祀った「豊国神社」もあり、こちらは大阪城の豊國神社から分祀したものです。

 ここで犀川沿いのつぼみが大きく膨らんだ桜の下を歩きます。
「延命寺」の手前に弘法大使を祀る「弘法堂」があります。
ここから民家のなかを通る路地を進みます。

 路地の先には「八幡大社」があります。
美濃国のここ安八郡式内社の荒方神社の論社は、先ほど訪れた「白鬚神社」と、ここ「八幡大社」です。
境内に足を踏み入れると、太鼓型の石橋の先に「八幡大社」の拝殿があります。

 「八幡大社」には、小栗判官の伝説が伝わっています。
常陸の国の小栗判官小次郎助重は、相模の国の横山郡代の娘 照手に恋をします。
しかし横山一族に殺されてしまい、地獄に落ちた小栗は閻魔大王の計らいで餓鬼阿弥の姿にされてしまいますが、藤沢の上人に助けられ美濃青墓にやってきます。
その後も多くの人々の助けで熊野本宮まで連れて来られ、湯の峰温泉に入るとようやく元の姿を取り戻すことができました。
京都では両親に会い、そして青墓に売られていた照手とも再開することができたというお話です。

 1週間後には桜で色付く墨俣でしょうが、天気が良く温かい春を感じた1日でした。

 
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