[旅の日記]
美濃加茂の太田宿 
中山道の宿場町、美濃加茂にある太田宿を訪れてみます。
岐阜よりJR高山本線に乗り、美濃太田駅で降ります。
駅前には、坪内逍遙の像があります。
この地から出た偉人で、太田代官所の手代の子として生まれ、明治から大正にかけて日本の文学をリードしてきた人物です。
旧中山道はここから1kmほど離れたところを通っていました。
駅の南側を東西に流れる木曽川の方向に、歩いて行きます。
木曽川には、木曾のかけはし、碓氷峠とともに中山道の難所と言われた太田の渡しがあります。
流れの速い木曽川を渡るのは、命を懸けた一大行程だったのです。
おりしも訪れたときは上流で大雨警報が出て、木曽川の氾濫の危険がある下呂では避難勧告が出ていた時です。
川の水は茶色に濁り、普段は水の来ないところに生えていないところまで水に浸かって、生えていた草はなぎ倒されています。
昔の人が命からがら渡った木曽川とは、こんなことを言ったのでしょうか。
それでは中山道を京に向かって西向きに歩いてみます。
「祐泉寺」は、東陽英朝禅師が1474年に草庵を結んだのが始まりとされています。
禅師がこの地を訪れた時に、枕元に観音菩薩の化身が立ち木曽川の川底に眠っている観音像を祀れば水難や火難から村を守れると告げらます。
夢の言葉を頼りに観音菩薩を探し出し、御堂を設けて像を安置したのが「湧泉庵」です。
その後は今の関市にある「梅龍寺」の末寺となり、現在の「祐泉寺」を名乗るようになりました。
街道の枡形に位置し、宿場を守るための軍事的な側面も持った寺院です。
その先には、旅籠屋の「旧小松屋」があります。
本陣や脇本陣が大名などの身分の高い人が停まるところに対して、旅籠は武士や一般庶民が泊まるところです。
江戸時代に旅籠を営んでいた建物を、太田宿の休憩所として再利用しています。
畳の上でゆっくりと足を休めることができます。
美濃加茂市出身の坪内逍遙についての展示もあるのです。

さらに歩いて行きましょう。
右手には「御代桜醸造」の店舗があります。
そしてその裏店は酒蔵があり、角を右に曲がると遠巻きに建物を眺めることができます。
木を打ち付けた外壁をもつ建物が道の左右に迫り、道を跨いで頭の上を渡り廊下が走っています。
建物の脇には大きなが植わっていて、巨大な白い花が咲いています。
オオヤマレンゲでしょうか。
あまりにも花が大きいので、蜜を吸いに来る蜂が花の中で蟻のように小さく見えます。
ここで再び中山道に戻りましょう。
酒蔵の角の道向かいには、「旧太田脇本陣林家住宅」があります。
1769年建築の建物で、2階の軒下に設けられたうだつが当時の林家の格式の高さを示しています。
格子戸や連子窓など、江戸の姿を今に伝えています。
林家はこの脇本陣の他、太田村の庄屋や尾張藩勘定所の御用達も努め、質屋と味噌醤油も手広く商っていました。
またここは板垣退助が岐阜で遭難したときの前の日に滞在したところでも有名です。
隣の「元太田町長林家五郎旧宅」(現座馬家)は今でも住居として使われており、総桜材造りの長屋門は貴重な建物です。
「旧太田脇本陣林家住宅」のひとつ先には、観光施設の「太田宿中山道会館」があります。
入口を入ると加茂の産物が並ぶ土産物が並び、その奥が展示室になっています。
展示室といっても、江戸時代の太田宿の街並みを本格的に再現したものです。
そして中山道が姫街道といわれた所以が、ビデオで説明されています。
和宮親子内親王(かずのみやちかこないしんのう)は、仁孝天皇の15人の兄弟の末っ子として生まれました。
しかし昔のことです、成人したのは兄の孝明天皇(明治天皇の父)と姉の敏宮(ときのみや)、そして和宮の3人だけでした。
6歳の時に有栖川宮熾仁親王(ありすがわたるひとしんのう)と婚約していたにもかかわらず、15歳の時に幕府から朝廷に対して14代将軍徳川家茂の嫁となるよう申し入れがあり、天皇家は承諾せざるえませんでした。
公武合体の名のもとに行われた、政略結婚です。
16歳になった和宮は国民のためと、苦渋の選択の末に1861年に中山道を江戸に下ったのでした。
このことが、中山道が姫街道と呼ばれることになった理由です。
「太田宿中山道会館」を出たところには、通り脇に木の門が建っています。
門だけが残っており違和感があったのですが、これが「旧太田宿本陣門」です。
本陣の偉容を偲ばせる格式高い門です。
1861年の和宮が徳川家茂に嫁ぐために下向するために新築された門で、この時は街道沿いの家並も修復をして祝ったということです。
本陣の建物は今はありませんが、この門だけが残っています。
そしてその先に太田宿の西側の枡形がありますが、その手前西福寺の入口のところに道標があります。
道標には「右関上有地 左京伊勢」の文字が刻まれており、ここが中山道と郡上街道との分岐点「追分」として栄えたことが判ります。
さてこれで今回の散策は終わり帰ったのですが、帰らずにいれば大変な災難に巻き込まれていたところでした。
本当はJR高山線でさらに北上して下呂まで足を運びたかったのですが、前述のように大雨で下呂の直前の飛騨金山から先が不通になっていました。
一時は飛騨金山まででも進もうかとも思ったのですが、今後さらなる大雨が予想されたのであきらめたのが正解だったのです。
この地を離れてしばらくするとJR高山線の不通区間はさらに広がり、美濃太田より先には1歩も進めなくなったのでした。
仮に先に進んでいると、帰ることもできなくなっていたことでしょう。
太田宿の散策は、雲の切れ目で雨にも合わずに奇跡的に帰って来れたのでした。
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