[旅の日記]
中山道の中津川宿 
JR中津川駅にやってきました。
本日は、この中津川を散策してみます。
中津川は、中山道の中津川宿があった場所です。
関が原の合戦で天下統一を果たした徳川家康は、江戸を基点として5つの街道を整備します。
江戸から京、大坂までは東海道がありますが、高低差が少なく歩きやすい代わりに人通りが多いうえに川を越える必要があります。
天候によっては、先に進めないことがありました。
それに対して山岳を歩く中山道は、道は平坦でないものの天候に左右されることなく旅程がたてやすいことで好まれました。
ここ中津川には宿場があり、木曽路の入り口として商業の中心地として栄えたのでした。
その足跡が、旧市街として今も残されているところがあります。
駅前の観光案内所で教えてもらった通り、駅南口から延びる駅前通りを進み3つ目の信号で交差する通りが中山道です。
左に行くと「高札場」があるのですが、今回は右に舵を取り西側の旧家が並ぶところを見て回ります。
中津川宿は中山道の45番目の宿場で、1軒ずつの本陣、脇本陣と、29軒の旅籠が中山道を歩く旅人のために整備されていました。
中津川から茶屋坂までの約1.1kmにも及ぶ中津川宿ですが、通りには用水も引かれておりその跡が今も残っています。
交差点から中山道に入ったところに、「すや」があります。
元禄年間の創業で、創業者は武士という身分を捨てて酢の醸造業を興します。
「酢屋」だったところを、7代目が菓子を売り出します。
そして、8代目は「栗きんとん」を中津川で知らない人がいないくらいの有名店に発展させていったのです。
「すや」をはじめ、中山道らしい純和風の建物が見えてきました。
さらに西に歩いて行きましょう。
途中で街道から狭い路地に入り、隠れ家を探しに行きます。
料亭「やけ山」があった場所で、ここで長州藩士桂小五郎(木戸孝允)は1862年に藩主毛利慶親と会います。
当時の長州藩は「公武合体」を支持してきたのですが、この会談を機会に「尊王攘夷」へと大きく方針を変え倒幕へと衝き進むようになります。
いわゆる「中津川会議」と呼ばれるもので、幕府の役人の目を逃れて極秘裏に行われたことから、この場所は「桂小五郎隠れ家跡」とされています。
再び中山道に出て、先を進みます。
大正時代末期の「町営質屋跡」が残っています。
いまは、IT会社がこのビルを利用しています。
「往来庭」は、観光用の休憩所です。
冠木門の正面には、蔵造りの建物がみえます。
その脇には子宝祈願を祀った「夫婦岩」が飾られており、お参りに来た人が置いたと思われる賽銭があります。
その先の川を交差するところに「四ツ目橋」があります。
この四ツ目川から先が、中津川宿の中心地です。
「中津川歴史資料館」では、木曽路に通じる場所で江戸と京の接点として商業上、文化面から重要な役割を果たしました。
資料館では、中津川宿の旧家から発見された古文書を収集、展示しています。
その中には、幕末の混乱期で「薩長同盟」の密談を伝える文書などの貴重な資料も含まれています。
実はこの「中津川歴史資料館」は、脇本陣があったところに建てられています。
それを証拠に、資料館の裏手には「中津川宿脇本陣跡」として建物の一部が残されています。
一方の本陣は、資料館とは中山道を挟んだ向かい側にありました。
今は駐車場になっており、「中津川宿本陣跡」と記された石碑が立っているのみです。
「中津川歴史資料館」の隣には、大きな建物があります。
今回一番見たかったのは、この建物です。
ここは「庄屋跡旧肥田家」で、中津川村の庄屋をつとめていた肥田九郎兵衛の屋敷跡です。
屋号を「田丸屋」と言い、代々の当主が九郎兵衛を名乗っていました。
江戸時代の後期からは旅籠を営んており、1893年には恵那山に登ったウエストンも宿泊したということです。
明治に入るとこの土地を曽我家が手に入れ、中津川の最初の医院をここで開きました。
その先に石灯篭と水場があり、広場になっています。
「大坂屋」という商人向けの旅籠の後で、江戸時代から1937年までここで営われていました。
中津川宿の伝馬役員35人のうちのひとりに大坂屋善左衛門が記されているほど、この地方の有力者であったことが判ります。
檜笠や屋根板などの白木物の販売も行っていました。
ちなみに画家の吉田耕雲は、ここ大坂屋の生まれなのです。
中山道はこの先を大きく左に曲がり、そのあと右手に曲がってもと通りの西に進みます。
いわゆる「桝形」です。
本陣に泊まる大名に対して、人為的に作った角形で敵から見通しが効かないようにして、敵の攻撃から守ったのです。
そして本陣、脇本陣のある場所はは四ツ目川の氾濫に備えて、少し高い位置にもなっていました。
こうして敵から、そして自然化からも大名を守った町造りになっています。
「桝形」の中央にも、古い建物が残っています。
「十八屋(間家)」は江戸中期に園田大学が建てたと伝えられるものです。
屋号を「十八屋山十」という豪商 間杢右衛門が興した旅籠です。
当時の旅籠は町役人しか営むことができなかったのです。
1861年に皇女和宮が将軍家茂との婚儀で江戸に下るとき、ここに京都御供が宿泊しました。
また1864年に水戸天狗党が通過したときには、和田峠の戦いで負傷した武士を隠し部屋にかくまったともいわれています。
「十八屋」の先には、1842年建築の「白木屋」があります。
横井家の持ち物で、こちらも江戸時代の中津川の商家の面影を残す建物です。
外からは知ることができませんが、中2階の部屋があり梯子で登り降りしていたということです。
通りを挟んで反対側には、「旧中川家」があります。
現在は杉本屋という薬局になっていますが、中津川村と子野村で庄屋をしていた広大な中川萬兵衛の屋敷であったところの一部です。
歌舞伎絵師の中川ともは、この中川家の出です。
明治時代には原作吉がこの土地を購入し、ここで呉服商を営みます。
その後は薪炭商、荒物商と商売をしてきました。
映画「青い山脈」のロケの舞台としても、使われた場所です。
そして「桝形」の2つ目の角には、杉玉の吊るされて場所があります。
「恵那山」で有名な造り酒屋の「はざま酒造」です。
関ヶ原の戦いの翌年に当たる1601年に、この地で酒造りを始めた歴史のある酒蔵です。
元々間家は京極家に仕えていた武士で、室町時代に美濃の国に移り住みます。
そこで酒造りを始め、江戸時代には尾張徳川家の御用商人となって美濃国屈指の豪商としてその名を馳せました。
酒造りに大切な水は恵那山の伏流水を汲んで、仕込み水として使ってできた酒が「恵那山」だったのです。
さて中津川宿も、そろそろ終盤に差し掛かってきました。
街道には、下に1本の細長い窪地を跨ぐように造られた橋があります。
窪地は今では遊歩道になっており、古い水路かと思い確かめるために下に降ります。
そこで目にした看板には、ここが鉄道の線路跡であったことが書かれています。
旧本州製紙の中津工場にひかれた引き込み線だったのです。
鉄道は1969年に廃線になってしまいましたが、その跡地は「ミニ中山道」という名で散歩やジョギングのコースとなっています。
こうして中津川宿を巡ってきました。
正直言って最初は期待しておらず、中津川駅に到着して初めて観光案内所で見どころを尋ねたぐらいでしたが、いざ歩いてみると歴史の残る奥深い街並みでした。
さて、ここからは辛口の「恵那山」、それとも甘い「栗きんとん」、どちらを口にしましょうか?
まだまだ楽しめる中津川だったのでした。
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