にっぽんの旅 東海 岐阜 馬籠

[旅の日記]

中山道の馬籠宿 

 中山道の馬籠宿に来ています。
南木曽からのバスで馬籠までやって来たのですが、まだ馬籠に着いていないのに途中のバス停で乗客全員が降りてしまいます。
不思議に思って運転手に聞くと、「ここからでも馬籠に行けますよ」とのこと。
予定外の行程ですが、皆に合わせてここで降りることにします。

 バスを降りたのは良いものの、ここがどこなのかが理解できていません。
周りの景色と地図を睨んで、今の置かれている状況を必死で把握したものです。
そこで判ったことは、
 ・馬籠宿は高低差のある宿場
 ・今いるのは馬籠の端の一番高いところ
 ・帰りのパスターミナルは反対側の低い場所にある
ということです。
つまりこのまま下に向かって下りて行けば、無理なく馬籠を回ることができるのです。
結果的には、最の良い場所にあるバス停で降りたことになります。

 バス停から中山道へは目と鼻の先で、すぐに判ります。
中山道の入口には、馬籠宿であることを示す標石が建っています。
その向かいには、「高札場」があります。

 少しだけ坂を上ってみましょう。
そこには「展望広場」があり、見晴らしがよくて最高の眺めです。
ここからは遠く南沢山の山々を臨むことができます。

 それではここからは中山道を坂を下って行き、馬籠宿を巡ってみます。
ここは中山道六十九次のなかの43番目の宿場に当たります。
歴史的景観を今に残すかつての宿場だけあって、街道の左右には昔ながらの建物が残され古い街並みが保存されています。
そしてこの街並みですが、1895年と1915年の2度の火災により、石畳と枡形を残して古い街並みは消失してしまいました。
いま目にしているのは、復元された街並みなのです。
かつては長野県木曽郡山口村に属していた馬籠でしたが、2005年の山口村の越県合併によって岐阜県中津川市に編入されました。
有名な馬籠宿ですが、全69軒のうち1軒の本陣、1軒の脇本陣、そして18軒の旅籠と、宿場としては比較的小規模であったことが判ります。

 馬籠に到着していきなりですが、お腹がすいてきました。
ここの名物である「栗おこわ」を出してくれる店を探しましょう。
最初に見つけた喫茶店では、残念ながら秋以外は栗を扱っていないということで、この時期はメニューから外しているとのことです。
気を取り直して、次の店を探します。
ここに来る前に調べたところでは、ほかにも2軒ほど「栗おこわ」を出してくれる店があったはずです。

 次に訪れたのは、馬籠でも大きめの郷土料理の店です。
幸いにもここには、お目当ての「栗おこわ」が定食として置かれています。
早速注文し、出てくるのを待ちます。
5分ほどで香ばしい栗が乗ったおこわが、目の前に運ばれてきます。
柔らかくて甘みのある栗がモチモチとしたご飯に、よく合います。
栗の他にも小豆が入っており、それにゴマ塩を振っていただきます。
それはもう、幸せなひと時です。

 栗の味を十分に満喫できた後は、さらに馬籠宿を探索していきます。
すぐそばには、「馬籠脇本陣資料館」があります。
脇本陣では屋号を「八幡屋」といい、馬籠宿の年寄役も兼ねていました。
館内では、当時使用されていた家財などが展示されています。

 そしてその隣が「藤村記念館」です。
島崎家は、江戸時代には本陣、問屋、庄屋を兼ねていた旧家で、馬籠だけでなく妻籠の本陣も勤めていました。
島崎藤村(本名 島崎春樹)は、国学者で17代当主の正樹のもとにここ馬籠の地で四男として生まれます。
幼いころから父から論語を習っていた春樹は、1881年には上京して泰明小学校に通います。
三田英学校(旧慶應義塾分校現在の錦城学園高等学校)、共立学校(現在の開成高校)に進み、明治学院普通部本科(現在の明治学院高校)に入学します。
1886年には父正樹が郷里にて牢死してしまいますが、このことが後の代表作「夜明け前」の主人公 青山半蔵のモデルとして登場します。
20歳になると、明治女学校高等科で英語科の教師となります。
そして北村透谷、星野天知とともに雑誌「文学界」に参加し、藤村として詩人のスタートを切ります。
その時教え子の佐藤輔子と恋仲になり、それが元で職場を追われて芭蕉のような流浪の旅に出ることになります。
1894年に復職しますが、ちょうどこの時に信用していた透谷が自殺し、さらには兄秀雄が水道鉄管に関連する不正疑惑のため収監、翌年には輔子が病死してしまいます。
ここで春樹の人生の歯車が、大きく狂っていきます。
そして春樹は女学校を辞職してしまいます。
しかしこれらの出来事が、後の小説となって描かれることになり、この時期の春樹の心境が小説「春」に表されています。
1896年には東北学院の教師となって宮城県仙台市に赴任しますが、ここでも母の死に直面します。
その後、小諸義塾の英語教師として長野県小諸町で雇われ、それから北海道函館区出身の秦冬子と結婚して子宝にも授かり、やっと安定した生活に戻ります。
やがて小諸義塾を退職し、島崎藤村としての本格的な執筆活動に入ります。
「家」「春」そして誰もが島崎藤村の名を知ることになる長編小説「夜明け前」が生まれるのです。
「木曾路はすべて山の中である」の書き出しで知られる「夜明け前」は、彼が生まれ育ったこの地方の情景を描いたものです。
記念館には島崎家としての本陣を残すだけでなく、小説家藤村の部屋が保存されています。
そして敷地内の別棟には、彼の作品が収納されています。

 再び街道に出てみましょう。
先ほどより、人通りが増したように思えます。
それではと、人ごみを避けて通りを逸れた「永昌禅寺」に向かいます。
ここには藤村の墓があり、静かな木曽の片隅で彼は眠っているのです。
若くして上京した藤村ですが、恐らく彼が本当に好いていたのはこの木曽の地だったのではないでしょうか。

 さて再び街道に戻ったあとは、「清水屋資料館」に寄ります。
「清水屋」は、島崎藤村の作品「嵐」に出てくる「森さん」こと原一平の家です。
資料館には、藤村からの書簡が展示されています。
また一平が集めた陶磁器や漆器も、建物の2階を資料館にして飾られています。

 バスを降りたところからかなり下りてきて、馬籠宿も終点に近づいてきました。
ちょっと休憩がてらに、甘いものを口にしましょう。
店の看板に書かれていた「アイスもなか」を注文します。
出てきたにはもなかの皮にアイスを盛ったものです。
そこには小豆がかかっており、てっぺんには馬越らしく栗のかけらが乗っています。
栗をこぼさぬように慎重にアイスをすくっていきます。

 さていよいよ馬籠の最終地点に向かいます。
写真でよく見る水車とその後ろに続く坂は、この辺りにあるはずです。
通りの片隅に水車を見付けました。
人が集まっているのではと心配していたのですが、本通りの脇道にあるせいかゆっくりと見ることができたのでした。

 ここから中津川に向かうバスに乗り、馬籠宿を後にしたのです。
藤村の生きざまに触れることができた、馬籠だったのでした。

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