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[旅の日記]

女城主の岩村城 

 恵那から列車で40分のところにある岩村に来ています。
岩村へは、明知鉄道というローカル線に揺られてやって来ました。
開かずの金庫を番組で開けてみせるといったテレビを見て以来、その背景に映っていた町の風景に魅了されていました。
いつかは訪れたいと思っていた場所なのです。
そしていざ岩村駅に着いてみると、ここは観光地らしくて多くの人が往来しています。
早速、駅から岩村城に続く歴史的建物が多く残る通りを歩いてみます。

 駅からすぐのところに、「鴨長明塚」があります。
「方丈記」の作者である鴨長明は、鎌倉を追われてからの隠遁生活をここ岩村で過ごしたともいわれています。

 さらに先を進みます。
やがて重要伝統的建造物群保存地区である、石畳の通りに出ます。
通りを歩いていると、街のあちこちに「つるし雛」が飾られています。
この時期どこの家でも家屋の中には立派なひな人形が飾られていますが、それ以外でも軒下などのちょっとしたところに「つるし雛」が吊るされており、町に華やかさを放っています。

 「柴田家」は、明治時代の典型的な建物です。
いまは「いわむら美術の館」として、原田芳州の絵画が展示されています。

 その先には「厳邑(いわむら)天満宮」があります。
赤いのぼりが並んでいるので、すぐに判ります。
菅原道真公で名高い大宰府天満宮からここ岩村町新町に、1822年に迎えられた学問の神様です。
正月の受験シーズンともなると、合格祈願をする受験生の絵馬が並びます。

 その先の通りを脇道を入ったところに、「加納家」があります。
初代 包房から5代目 睦久まで続いた、岩村藩の鉄砲鍛冶の家です。
6代岩村藩主 松平乗保の命で、包房は鉄砲鍛冶を始めます。
鉄砲だけでなく槍なども作っていたといわれています。
建物の中には、包房が製造したとされる火縄銃や鉄砲玉、そして注文書などの古文書が展示されています。
町全体がひな人形で着飾っているなか、ここでは見事な土人形が展示されています。
その数には圧倒されます。

 さて元来た通りに戻ると、そこには「庚申堂」があります。
藩主羽生家の家中より庚申の本尊青面金剛像の寄進があり、それを祀るための「庚申堂」がここに置かれました。
「庚申堂」に向かって右手には「高札場」があり、藩主が取り締まりのために公布した法度をここで領内に知らしめたのものです。
実はこの「庚申堂」の手前に五平餅屋があるのですが、準備中の札が掛かっています。
米が切れたのでしょうか、また後で寄ることにします。

 「勝川家」は屋号を「松屋」と称した杙木や年貢米を扱っていた商家です。
奥に入り通用門を潜ると、蔵があって扉が並んでいます。
3000俵の米を蓄えることができる巨大な蔵です。
また松尾山と呼ばれる勝山家所有の山林より伐り出した木を保管するための木蔵もあります。
岩村藩御用達の「勝川家」は、藩内でも有数の商家だったのです。
屋敷の中には、立派なひな人形が飾られています。

 その隣には「浅見家」があります。
幕末に3代に渡って大庄屋を勤め、藩の政治と財政に尽力を捧げました。
上州那和(現高崎市)に住んでいた先祖は、1601年の松平家乗が岩村城主として転封した時に御用達職として岩村に移り住みました。
8代目政意の時には大庄屋兼問屋を任され、9代目為俊に至っては苗字帯刀を許されました。
郡上騒動の際には、木村氏とともに軍資金の調達や困窮者への米の配布、江戸藩邸の類焼に対する金品の提供など、岩村藩を支え続けてきました。
そして11代の与一右衛門は、大井と岩村間に鉄道を敷設するといった大事業を成し遂げました。
1906年のことで、日本で7番目の電車でした。

 「浅見家」の向かいには、「土佐家」があります。
1780年に立てられた建物で、木綿などの衣類に染を入れる染物業を営んでいた商家です。
母屋は典型的な江戸時代の店舗となっており、良い状態で保存されています。
奥の蔵は染工場となっており、当時使用していた染のための樽が並んでいます。
建物はいまでは復元も行われて、「工芸の館」として公開されています。

 ここに土蔵造の建物があります。
いまは「岩村観光案内所」となっていますが、1908年の岩村銀行設立時には本店として建設されました。
1931年には濃明銀行を吸収合併して恵那銀行と改称します。
1942年に十六銀行に営業譲渡されるまで、岩村の経済の中心として町の発展に寄与してきました。

 さらに先に進むと「木村邸」があります。
三河国挙母(現豊田市)出身の木村家ですが、岩村藩主に召喚されて問屋商として岩村に移り住みました。
木村家は藩の財政困窮のたびに御用金を調達して、勝川家とともに藩の危機を救ってきました。
藩主自身も幾度となく「木村邸」を訪れたということです。
藩主出入りの玄関と表通りに面した武者窓は、江戸時代の町家の様式をいまに留めています。
母家の裏には中庭と蔵が並び、その奥には2階建ての離れがあります。
離れの「老松小屋」には、世界各国から集めた品々が並んでいます。
それにも増して、庭を見下ろすことができる縁側が何故かに気に入ったのでした。

 ここで「木村邸」の裏手に回り、路地から「木村邸」を眺めてみます。
なまこ壁になっており、菱型のなまこ模様が美しさを醸し出しています。
これもまた風情があります。

 さてここから先は、寄ってみたい店を巡ります。
「木村邸」から上がったところにあるのは、「木野薬局」です。
店では趣のある引き戸が迎えてくれ、2階に並んだ木製の薬の看板が特徴的です。
「寄應丸」など聞いたことのある名前もあるのです。

 「松浦軒本店」は、1798年から続く和菓子店です。
屋号を「横屋」と称し、辰蔵という名を代々襲名しています。
岩村藩の医者 神谷雲澤が蘭学を学ぶために長崎に出かけた際、カステラの製法を学んで岩村に帰ってきます。
菓子作りを生業としていた「横屋」は雲澤から製法を伝授し、「岩村カステラ」を作り上げます。
周囲6方に焦げ目がついたカステラは、カステラとクッキーの間のようなサクサクした食感で、これもまた美味しいものです。

 次に訪れたのは、「岩村醸造」です。
店の前には杉玉が吊るされています。
ここには「岩村城」を守った女城主にちなんで、日本酒「女城主」があります。
岩村醸造蔵開きの日には、絞りたての新酒が振舞われます。
今回は時期を過ぎていましたが、明知鉄道の1日乗車券を購入すると岩村の店舗で使える飲食券が付いており、ここでも使えるのでワンカップをもらって帰ることにします。

 さらに歩き、常夜灯のところで「岩村城」の方向へ左折します。
登城口近くには、太鼓櫓が迎えてくれます。
江戸時代初期になるとこれまでの戦乱の世が終わりも告げ、これまでのように城の山頂に城を構える必要がなくなります。
その時の藩主 松平家乗は城の麓に藩主邸を造営し、山から下りてここに住まうことになりました。
そしてここが、政治を司る場所となったのです。
同時に城下に時を知らせために「太鼓櫓」を設けました。
「太鼓櫓」には非常時に乱打して、領民に急を知らせる役割もあったのです。

 また岩村藩は3万石の小藩でありながらも、文教藩として全国に名を馳せた藩でした。
1702年に松平乗紀が城下に文武所を建設し、後藤松軒の門人の佐藤勘平を招いて藩士の子弟を教育しました。
美濃国では最初のものであり、全国的にも比較的早い時期の歴史ある藩学でした。
ここで教えていた学科は、和学、漢学、算法、習礼と身体や精神を鍛える兵学、弓術、馬術、槍術、剣術、砲術、柔術です。
文武所は後に「知新館」と改名しましたが、学舎が火災に遭ったため岩村高校(現在の恵那南高校)岩村校舎の敷地内へ移転し、藩士の子弟教育を支えてきました。
「知新館」の正門と建物が、この場所に再建されています。

 また広大な岩村藩藩主邸跡には、登城口から見て奥の方に「岩村歴史資料館」があります。
ここでは、岩村城や岩村藩関連の史料が展示されています。

 「太鼓櫓」から「岩村城」に向かう登り坂の途中に、「下田歌子勉学所」があります。
日本の女子教育の先駆者で歌人であった下田歌子が、勉学に励んだ勉強部屋を復元したものです。
歌子の家系は代々学者で、「知新館」でも教えていました。
女子は藩校で習うことができなかったため、歌子は祖母から読み書きを教わりました。
5歳で俳句や和歌を詠み、8歳で漢書を理解するなど、歌子の才能には目を見張るものがありました。
明治から昭和の女子教育の先駆者として、その基礎を養ったのがこの勉学所だったのです。

 「岩村城」はここからさらに坂を登ったところにありました。
「岩村城」は1185年に源頼朝の家臣である加藤景廉によって築城され、2代景朝は名字を遠山と改めてそれ以後戦国時代まで400年間は遠山家が統治しました。
岩村城は天然の堅固な山城で、奈良県の高取城、岡山県の松山城とともに日本三大山城のひとつに数えられています。
戦国時代には、武田氏と織田氏の間で城の争奪戦が繰り広げられました。
岩村城のある美濃の国は武田信玄の領地である甲斐への入り口として重要視され、岐阜城を手に入れた織田信長は遠山氏と同盟を結んで、自分の叔母である「おつやの方」を遠山景任に嫁がせます。
「おつやの方」は絶世の美女としても有名ですが、女性城主として岩村城を治めたことが今に語り継がれています。
「岩村城」は1873年の政府による廃城令によって全て取り壊され、現在は1.7kmにもおよぶ城壁のみが残っています。

 さて岩村の町も一通り見終えて、先ほど開いていなかった五平餅屋に向かいます。
今度は開いていたのですが、どうやらそろそろ店を閉めようとしていたようで、遅い昼食を取ろうとしていたところに入っていってしまいました。
しかし快く迎え入れてくれ、餅を焼き始めます。
焼けるまで席に通されたのは良いのですが、待っている間にお茶を呼ばれたり昼食のおかずの切り干し大根が出されたり、至れり尽くせりの対応をしていただきました。
五平餅は期待通り、甘辛くてモチモチの美味しいものです。
そして餅を食べ終わると、「自分たちも飲むのだから一緒に」と今度はコーヒーが出てきます。
明知鉄道の1日乗車券のおまけでこんなにいただくなんて、申し訳ない気持ちでいっぱいでした。

 女城主で栄えた岩村を知って、岩村の人の温かさに触れたことで、非常に良い気分になって帰路に就いた岩村の旅だったのです。

   
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