にっぽんの旅 東海 岐阜 岐阜

[旅の日記]

岐阜 

 岐阜にやってきました。
JR岐阜駅の前には、金色の織田信長の像が建っています。
戦国時代は信長によって栄えた岐阜を物語るように、ひときわ高い場所から我々を見下ろしています。
駅前ロータリーを出たところには、名古屋電鉄の岐阜駅があります。
岐阜一番の繁華街で、道の両側には商店や飲食店が並びます。
その通りを北方向に、「長良川」に向けて歩いて行きます。

 やがて左先に神社が見えます。
近付いて行くと、他とは違った妙な鳥居が見えます。
ピカピカ輝く金色の鳥居と判り、びっくりです。
ここは「金神社(こがねじんじゃ)」です。
金色の鳥居を潜ると、その先にはまぶしい朱色の拝殿があります。
物部臣賀夫城命が135年に国府をこの地に定め、金大神を崇敬しました。
金大神とは、渟熨斗姫命(ぬのしひめのみこと)、市隼雄命(いちはやおのみこと)、五十瓊敷入彦命、日葉酢姫命の4柱のことです。
金運、財運に利益があるとされており、せっかく来たからには参らずにはいられません。
これで今後は財布が潤うことでしょう。

 「金神社」の向かいには、「金公園」があります。
そして公園内には、なつかしい電車が保存されています。
美濃電気軌道の半円筒型の車体で、丸い窓のあるのが特徴です。
「新岐阜」行きの看板が、掲げられています。
子供たちはそんなことなど関係ないようで、広場を走り回っています。

 さて昼前に岐阜に着いたものの、満足に昼食にありつけていなかったことを思い出します。
そういえばこの辺りに美味しい「五平餅屋」があると聞いたことを思い出します。
市役所の近くにある松田屋で、餅や団子の和菓子屋です。
店頭で焼きたての「五平餅屋」を購入し、口に運んでみます。
うるち米に甘い味噌だれがたっぷりついた餅が、串に刺さっています。
甘辛いたれと米本来の甘さが広がり、それでいてお腹に溜まる美味しい餅です。

 さらに「長良川」方向に向かって北に進みます。
右手に両端に桜が並ぶ道が見えます。
この景色に誘われて、右手に折れます。
その先には少し開けた場所があり、その脇に「岐阜善光寺」があります。
武田信玄によって信州から甲府へ移されていた善光寺の善光寺如来ですが、岐阜城主となった織田信長は、「岐阜善光寺」を創建して岐阜へ移します。
その後の「本能寺の変」で信長が討たれると、本尊は岐阜から移されてしまいます。
しかし信長の孫 織田秀信によって、善光寺如来の分身を「岐阜善光寺」の本尊として祀ることになります。

 「岐阜善光寺」の先の登り坂を進みます。
先には、西暦84年創建の「伊奈波神社」があります。
楼門を潜った奥の本殿は、木目が美しい木造りの建物です。
天下泰平だった当時は、諸国で産業が勃興します。
この地も他ならず、揖斐・長良・木曽の三大河川に恵まれた一歩で、洪水にも悩まされてきました。
「水を制する者は天下を制す」と言われ、水を制するには金を以て当てるという陰陽五行の信仰からこの辺りには「水」や「金」の名の付いた地名が多く存在します。

 再び北に向かって進みます。
「常在寺」「妙照寺」と寺が続いたところに、3層の高い建物が見えます。
宇治黄檗山万福寺の末寺の「正法寺」で、中には日本三大仏のひとつに数えられる「岐阜大仏」が鎮座しています。
38年の歳月を費やして1832年に完成した「岐阜大仏」は、大イチョウを真柱とした高さ13.7mの大釈迦如来像です。
胎内仏としては、薬師如来像が安置されています。
大仏殿の内側の四面の壁には、無数の木像が並んでいます。

 さらに北に向かいます。
「岐阜市歴史博物館」を取りすぎ、そこから広がる「岐阜公園」を訪れます。
「岐阜公園」は、「岐阜城」のある「金華山」の麓に広がる公園です。
園内には休憩所の他に、「板垣退助像」や「織田信長居館跡」があります。
またこれから訪れる「岐阜城」の井戸のひとつも、ここに残っています。

 それでは、「岐阜城」を目指して進みましょう。
「岐阜城」は「金華山」の山頂にそびえる城で、ここからはロープウェーで向かいます。
「金華山ロープウェー」は、後ろに岐阜の町を見下ろしながら、329mの「金華山」を一気に登って行きます。
駅名はいたって単純で、「山麓駅」と「山頂駅」です。
小椎やアラ樫が密生する山の斜面を、ロープウェーはいとも簡単に通り過ぎて行きます。
わずか3分で「山頂駅」に到着です。

 ここは既に「岐阜城」への入り口です。
門を潜り、城への山道を歩いて行きます。
「岐阜城」は、鎌倉時代の1201年に二階堂行政によって築かれた砦です。
難攻不落の城としても知られ、「美濃を制すものは天下を制す」と言われたものです。
戦国時代には、斎藤道三がここを居城とします。
このころは、この城を「稲葉山城」と呼ばれていました。
そして1547年には織田信長が城下まで攻め入りますが、大敗する「加納口の戦い」が勃発します。
その後も1561年に再び攻め入るも敗退してしまいます。
かねてから城を狙っていた信長は1567年についに城を攻略し、その時の城主 斎藤龍興を追い出して自らが城主となります。
その際、「井の口」と呼ばれていた地名を「岐阜」に、「稲葉山城」を「岐阜城」に改めます。
これが「稲葉山城の戦い」です。
その後信長は織田信忠を岐阜城の城主とし、織田家の家督及び美濃、尾張の2ヶ国を譲り浮け、この地を支配します。
一方の信長は、着々と天下統一に向かって足元を固めて行きます。
ところが1582年の「本能寺の変」で信忠が倒れると、留守居の斎藤利堯が岐阜城を掌握することになります。
その後は、豊臣秀勝など城主が入れ替わり、戦乱の世に翻弄されることになります。
1600年には、 織田秀信が石田三成の挙兵に呼応し西軍につき岐阜城に立てこもりますが、攻められて落城します。
これがのちの「関ヶ原の戦い」につながって行きます。
1601年に天下を取った徳川家康は岐阜城の廃城を決め、城の多くは加納城築城のために使われたということです。

 「山麓駅」までロープウェーで戻り、「長良川」を見に行きます。
「長良川」に架かる「長良橋」には、「鵜匠の像」が飾られています。
ここ「長良川」は「鵜飼」で有名な川で、「鵜飼」の時期まではあと1ケ月ほど待たなければなりません。
日没とともに篝火を燈した船を川に繰り出し、鵜匠操る鵜が魚を捕る漁法です。
今は「鵜飼」を見ることはできませんが、この像で我慢することにします。
「長良川」の川辺には、「鵜飼」を船の上から間近に眺めるための屋形船が、今年の出番を前に待機しています。

 さてこの辺りが、古い街並みが残る「川原町」です。
格子戸のある日本家屋が軒を連ね、長良川上流の木材や美濃和紙を長良川の水運を利用した港として栄えました。
この辺りは、材木問屋や商家が軒を連ねています。
濃尾震災の時には火災を免れ、戦争の空襲にも会わずに、当時の様子を今に残しています。

 新幹線が通っているものの、駅は町の中心地からは遠くさらにはのぞみの通過駅のために、これまでなかなか訪れることのなかった岐阜だったのです。
今回は、ゆっくり町を巡ることができたのです。
そして、改めて岐阜の歴史と信長の足取りを認識したのでした。

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