[旅の日記]
恵那の大井宿 
ここは岐阜県の恵那、名古屋から電車で1時間のところにJR恵那駅はあります。
明知鉄道の乗換駅でもある恵那は、かつての中山道の宿場町です。
そんな恵那を、本日は巡ってみます。
駅前の通りを南に5分ぐらい進んだところに、中山道は通っています。
恵那は「大井宿」と呼ばれる中山道の46番目の宿場です。
東西に走る中山道を、東側(江戸側)に進んでいきます。
「阿木川」に架かる橋の欄干には、広重の「木曽街道六十九次」の画が飾られています。
そして川には、なんと錦鯉が優雅に泳いでします。
その「大井橋」を渡るとその先は防衛のために桝形が続き、道が右や左に人為的に角がついています。
街道沿いには、古い街並みが続きます。

ここで脇道に入って、「長屋門」を見に行きます。
1786年ごろに建てられた商売屋である古屋家の門で、1830年ごろから大井村の庄屋を務めた家柄です。
古屋家は、後には岩村藩家老黒岩家から嫁を迎えています。
この辺りには武家屋敷があり、その周囲を家臣たちの住居である長屋が囲んでいました。
その一部に門があり、そこがこの「長屋門」です。
家老黒岩家の計らいもあって、1873年の岩村城廃城の時に城の門が移されたものです。
街道の櫛型の角には「市神神社」があります。
室町時代中期の創建で、大井町字市場田に霊石を安置し八大龍王の分霊を勧請したのが始まりとされています。
その後は遷座を繰り返しますが、1892年に現在の地にやって来て今に至っています。
1月には市神神社例祭という縁日が催され、たいそう賑わうところです。

「市神神社」で桝形の角を曲がると、そこには大きな屋敷があります。
「大井村庄屋古谷家」です。
間口15間(約27m)m、奥行31間半(約65m)もの広大な敷地を誇っています。
先ほど見てきた「長屋門」は、この屋敷の裏門に当たるものです。
それは城の門を移設するだけの家柄だった訳です。納得がいきました。
さて次の角で中山道の本来の向きに直ります。
角には1624年創業の「いち川旅館」があります。
とても趣のある造りでさぞかし値が張るのではないかと思ったのですが、東京のビジネスホテルに泊まることを考えると十分お釣りのくるところでした。
ここから東へ向かう街道沿いには、古い家々が続きます。
そのうちのひとつに「宿役人の家」があります。
林家が営み、14室の部屋を有する大型の旅籠屋でした。
1805年に本陣家より分家した林家は、明治に至るまでの60余年間、代々大井宿役人を勤めてきました。
名字帯刀を許された家柄だったのです。
東側の二間は土壁を境にして、特別客室を有していました。
そして林家は宿役人のなかでも最も重要な役人であったといわれています。
その先には街道沿いに古い蔵を持つ家があります。
その斜め向かいに、「ひし屋資料館」があります。
庄屋の古山家の建物で、江戸時代には屋号を「菱屋」と呼び、酒造と商売を行っていました。
享保年間から幕末までの150年間を、大井村の庄屋として勤めてきた旧家です。
今ある建物は、上宿にあったものを移築したものです。
太い格子と跳ね上げ式の大戸をもちます。
奥には8つの部屋と土蔵があり、江戸時代の雰囲気が残る建物です。
さてその斜め向かいが、またしても中山道の桝形になっています。
そしてそこに、「大井宿本陣」があります。
大井宿には110軒の住民が住み、宿内には1軒の本陣、1軒の脇本陣と41軒の旅籠があり、宿場町を形作っていました。
そしてこの本陣は、その中でも大名が泊まる高貴な場所だったのです。
堂々たる表門は安土桃山様式の当時のままの姿を残していますが、その奥の母家は残念なことに火災で焼失してしまいました。
屋根は反りをもたせた瓦葺で拭かれ、破風板や小屋組みの細工と彫刻は丁寧に仕上げられています。
樹齢300年を越すと思われている松も、いまだ健在です。
次の角には、「横薬師」のお堂が建っています。
病気や長命にご利益があるということで、深く信仰されています。
角を西に進み横町川を渡ったところには、「高札場」があります。
幕府が農民や商人を取り締まるために、人目に付きやすい場所にきまりを公示するためのものです。
ここで定められたことの管理と監視は藩に委ねられ、藩は村民を厳しく取り締まったとされています。
「高札場」の掃除も町民に課されたということです。
本日廻って来た恵那の大井宿は、古いがどこか良さの残る町でした。
少し早いのですが、今夜はこれで夕食とします。
さて、恵那の名物といったら何なのでしょうか。
今夜はこの地方の美味しいものを探して、町を中心地を歩き回るのでした。
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