にっぽんの旅 東海 愛知 豊橋

[旅の日記]

豊橋にある吉田城 

 本日は豊橋の散策です。
JR東海道本線と名古屋鉄道、そして新幹線も停まる豊橋です。
今回は名古屋鉄道、通称名鉄の特急に乗ってやってきました。

 豊橋に着くと、まずは駅から1kmほど離れた市役所の方向に向かって進みます。
途中にちくわ屋の建物があります。
三河湾そして遠州灘に面する豊橋は海の幸にも恵まれ、ちくわや蒲鉾の製造に適しているのです。
「ヤマサちくわ」は、1827年創業の老舗のちくわ屋です。

 さらに進んで行きます。
通りには豊橋鉄道の路面電車が行き来します。
本来の黄色に赤のラインの車体は見かけることがなく、全体に広告がペイントされたラッピング車両ばかりです。
しかし車とともに路面を走る姿は、懐かしくほほえましいもので心が和みます。

 豊橋鉄道の線路伝いを歩いて行くと、「豊橋市公会堂」が見えてきます。
1931年に竣工した、スペイン風の円形ドームをもつロマネスク様式の建物です。
堂々とした造りは、威厳を放っています。
そして公会堂の横には、建設時からあると言われる2羽の鷲の像がにらみを利かせています。
戦時中は一時は市役所の機能がここに移ったことがありますが、今は公会堂として式典や催し物に利用されています。

 「豊橋市公会堂」の東側の5分も離れていないところに、白壁に緑の尖った屋根の美しい建物が目の前に現れます。
「豊橋ハリストス正教会」で、聖使徒福音記者マトフェイ聖堂は1913年に完成したものです。
西洋風のドームは、函館ハリストス正教会の設計監督に当たったモイセイ河村伊蔵が京都ハリストス正教会をモデルにを造ったものです。
ビザンティン建築やロシア建築の影響を受けた姿をしています。

 その裏手には「安久美神戸(あくみかんべ)神明社」があります。
平将門が起こした乱を平定するために朝廷は伊勢神宮へ大伴保平を派遣し、平定の祈願を行います。
その甲斐あって、承平天慶の乱は丸く収まることになります。
これを喜んだ朱雀天皇は、三河国渥美郡北端である豊川左岸の安久美荘を伊勢神宮へ寄進します。
この地こそが今の豊橋で、安久美神戸という名の神領地になり、繁栄を祈願して屋代が創建されたのがこの神社です。
毎年2月には平安時代から舞われ続けられている赤鬼の「鬼祭」が行われます。

 それでは「豊橋公園」に足を踏み入れてみましょう。
緑豊かな「豊橋公園」を奥に進んで行くと、周りを石垣に囲まれた一角があります。
その奥には天守がひっそりと建っています。
西三河で勢力を広げつつあった安祥城の松平長親による東三河進出に備えるために、1505年に建てられた城です。
今川氏親の命により宝飯郡の長山一色城主である牧野古白が建てたものです。
その後城主が次々と入れ替わり、一時は今川義元がこの地を治めます。
ところが桶狭間の戦いで今川義元が討たれると、1565年には、松平家康(後の徳川家康)がこの地を支配します。
酒井忠次を城代に任命し、吉田城を中心とした周囲を味方の勢力で固めて、武田氏との遠江侵攻に備えます。
1590年に豊臣秀吉により家康が関東に移封されると、池田照政が城主となったのでした。
照政は吉田城の改修や城下町の構築に務めましたが、関ヶ原の戦いの翌年の1601年には照政が播州 姫路に移封されてしまいます。
江戸時代に入ると東海道の重要な防衛拠点であったこの地は幕藩体制の下に置かれ、竹谷松平家や深溝松平家などの大名が代わる代わる収めることになります。
そして大河内松平家が最後の大名として、豊橋の地を治めたのでした。

 「吉田城」を後に、次に向かったのは「吉田神社」です。
「手筒花火発祥之地」としても知られる神社で、豊橋祇園祭では花火が打ち上げられる場所でもあります。

 さてここから豊橋駅へは、豊橋鉄道に揺られていくことにします。
情緒のある路面電車の旅です。
来るときに歩いて来た道をすいすいと通り過ぎて行きます。
あっという間に豊橋駅に着いてしまったのでした。

 最後に立ち寄ったのは、駅前から歩いて行けるうどん屋です。
うどんと言っても侮ることなかれ、この地の名物となっている「豊橋うどん」の店です。
「豊橋うどん」というのは、見た目は普通のカレーうどんです。
細めの麺にたっぷりのカレーがかかり、その上にはうずらの卵が乗っています。
カレーうどんも美味しいのですが、驚くのはこれからです。
うどんを食べ進めて行くと、底の方にある堅い層にぶち当たります。
実は丼の底にはご飯が敷かれており、それをとろろが覆っているのです。
つまりカレーうどんとカレーライスが2度楽しめるのです。
食感もお腹も満足する一品だったのでした。

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