にっぽんの旅 東海 愛知 瀬戸

[旅の日記]

せとものの郷 尾張瀬戸 

 名鉄で尾張瀬戸駅まで、やってきました。
本日は愛知県の瀬戸市を訪れてみます。
瀬戸と言えば陶器の有名なところで、「せともの」という名はこの地の瀬戸からきています。

 尾張瀬戸駅前には、観光案内所があります。
ここで、この辺りの地図を入手します。
そしてこの地方で美味しいものを訪ねてみると、案内所の前に出て斜め向かいの店を指差されました。
「瀬戸やきそば」がこの辺りの名物ということで、時間も昼時ということもあって教えてもらった店に入ってみます。
カウンター席が5席ほど並ぶ小さな店で、メニューは焼きそばだけで大中小だけが選べます。
注文すると、麺にからんだ豚肉とキャベツがせとものの器に盛られて出てきます。
豚の煮汁や醤油ベースのタレを使用して味付けされており、もっちり感のある麺というよりは心地よい香ばしいさが口に残る麺です。
これなら焼きそばだけでも、お腹が持ちそうです。

 さて外に出ると、駅の周りには多くの陶器店が並んでします。
その中で木造4階建ての商店が、目につきます。
4階部分には丸の中に一の文字、そしてその両側に国と府の文字が囲む丸一国府商店です。
旧犬山藩の家臣が1872年に大曾根で開いた商店で、この地にやって来て1911年には現在あるような望桜を備えた建物を構えます。
望桜は犬山城を模したもので、珍しい形の建物なのですぐに判ります。
店には、綺麗な柄を付けた瀬戸焼の茶碗が並びます。
鮮やかな彩色なのですが、割れ物を買って帰ることには少し勇気がいります。
今回は眺めるだけで我慢することにします。

 まず訪れたのは、「久米邸」です。
瀬戸窯業を営む川本家の2代目 川本枡吉の別邸です。
現在残る建物は1908年のもので、明治後期の古民家です。
カフェやギャラリーとして利用されており、訪れたときにはちょうど古時計店が開かれていました。

 さらに奥に進みます。
小高い丘を登ったところに、藁葺きの建物があります。
ここは近代美術工芸家の藤井達吉が私財を投じて若手工芸家の育成のために造った建物で、「無風庵」と呼ばれるものです。
1952年には達吉が組織した工芸村が解散になりましたが、建物はこの地で保管されることになりました。
中に入るとお茶を出してもらい、瀬戸の見どころを色々と教えてもらったのです。

 「無風庵」の広場の前には、面白い家があります。
外塀が陶器でできており、見事な窯垣をもつ家です。
その窯垣を眺めなら先に進むと現れたのが、「窯神神社」です。
陶祖加藤四郎左エ門景正(藤四郎)を父にもち瀬戸に磁器を広めた加藤民吉の請願によって置かれた遥拝所で、1824年に造られたものです。
1826年には民吉を「丸窯神」として祀り、名称も「窯神社」と呼ばれるようになります。
その後は父 藤四郎を祀る「陶彦社」の旧社殿をここに移築しますが、放火により焼失してしまいます。
現在の建物は1964年に建てられたもので、丸窯を模したコンクリート製のものです。

 「窯神神社」の横には、加藤民吉像もあります。
そして社殿の背後には、木々の間から遠くに土の地肌が見える場所があります。
そこには陶土の採掘場が広がっているのです。
先ほど訪れた「無風庵」で聞いた話では、この様子が東洋のグランドキャニオンだそうです。
ここから露天掘りが成せた業を間近で見ようと採掘場を探しに行きます。
ところが歩けば歩くほど地肌の方向が判らなくなり、散々歩き回った割には辿り着くことができませんでした。

 仕切り直して、陶器の狛犬がある「深川神社」を訪れることにします。
再び「無風庵」まで戻り、その先の神社を目指します。
「深川神社」の石鳥居には、その足元に陶器が貼られています。
鳥居を潜り神社に入っていきます。
ところが拝殿の前の狛犬は、通常の石でできたものです。
注目の陶器製の狛犬は建物の中にあり、見学するためには入館料を払う必要があったのでした。

 「深川神社」の隣には、瀬戸に陶器を広めた加藤四郎左エ門景正(藤四郎)を祀っている「陶彦神社」があります。
藤四郎は、奈良近郊で役人であった藤原元安の元に生まれました。
春慶景正という名で、深草(現在の京都市伏見区)で土器作りをしていました。
特に高麗の焼物を集め、焼成方法を研究していました。
1223年には道元禅師について宋に渡って、焼物作りの秘法を学びます。
帰国後は、焼物に適した良質の粘土を求めて全国行脚を始めます。
瀬戸に立ち寄った際に探していた土に出会い、ここに窯を築き瀬戸陶業の始祖となり瀬戸を日本有数の陶器産地としたのでした。

 谷田川の川向には、ボンネットバスが停まっています。
何かと思い近づいてみると、どうやらバスの先にある博物館のものらしいです。
それは「招き猫ミュージアム」で、陶器で作られた招き猫を一堂に集めた博物館です。
商売繁盛でポツンと置かれている招き猫はよく見るのですが、こうも多くの猫たちがズラリと並ぶさまは勇壮です。
ここ瀬戸や同じ愛知県の常滑で作られた猫たちです。
小さなミュージアムなので、あっという間に見終えてしまいます。

 それでは先に進みましょう。
こげ茶色の木造の教会が見えます。
「瀬戸永泉教会礼拝堂」です。
1900年に建設されたキリスト教プロテスタント長老派の建物です。
木造平屋建ての和洋折衷のトラス構造で、明治期のものがそのまま残っているものは貴重な存在です。

 一方、谷田川の方に目を向けてみましょう。
欄干がやきものでできた橋があります。
欄干に小さなやきものが飾りとしてはめ込まれている橋はよく見るのですが、ここでは欄干そのものがやきものなのです。
さすがに瀬戸だと思うところでした。

 さらに歩いて行きます。
趣のある古い町並みが続きます。
そのなかに「陶祖春慶翁宅趾碑」があります。
さらに進むと、そこには「宝泉寺」があります。
立派な山門は、目を引くものがあります。
1633年に雲興寺15世興南和尚によって開かれた寺院で、陶磁器の絵付け職人が描いたとされる天井画がここにはあります。

 それではここからは「窯垣の小径」と呼ばれる遊歩道を歩いてみます。
道の両脇の垣根は、所々に陶器を積んだもので造られています。
それを眺めて回るだけでも楽しいものです。
小径には「窯垣の小径ギャラリー」や「窯垣の小径資料館」があります。
特に「窯垣の小径資料館」には、陶器でできた柄の入った美しい便器や、壁と床に贅沢に陶器を敷き詰めた風呂場を見ることができます。
実際に使われていたものと思うと、陶器の豊かな瀬戸の地だからことなせる業と感心してしまいます。

 資料館の後は「白龍大明神」と呼ばれる小さな社があります。
大明神という名の通り大きな敷地を持つ神社を探し、ここにある「白龍大明神」を見逃して通り過ぎてしまいました。
散々歩いたあげく、ここに戻ってきたのです。
本当の「白龍大明神」は1坪ほどの小さな神社です。
その昔、病気にかかりなかなか治らなかった人が占い師に診てもらったところ、この地で亡くなった落武者が白竜となって出てきているということでした。
そこで石碑を建てて落ち武者を弔ったのが、この「白龍大明神」だったのです。

 ここからは「王子窯」の煙突が見えます。
茶褐色に色付いたものが、積み重なってでてきているように見えます。
これはひょっとして、煙突自体が陶器でできているのかと思ったのですが、考えすぎでしょか。
すすが付いているだけの目の錯覚かもしれませんが。

 そしてその傍には「窯跡の社」の入口があります。
かつてはここに連房式登窯があり、戦前まで操業していた工房跡です。
今では草が生い茂る小高い丘ですが、瀬戸の反映を語る貴重な遺産のため発掘調査が行われています。

 ここで「窯垣の小径」は終わり、町の中の生活道路をさらに奥に進んでいきましょう。
しばらく進むと、登窯が見学できるところがあります。
斜面を利用した窯で、1979年までは使われていたものです。
ここから瀬戸焼が生まれてきたのだと思えば、頼もしくなってきます。

 さて窯と窯垣を一通り見終えると、再び街の中心地へ戻りましょう。
「瀬戸永泉教会礼拝堂」まで帰ってき、その先に洋風の建物がそびえています。
ここは「新世紀工芸館」です。
陶芸とガラス工芸の展示、交流、そして制作見学のための施設で、1914年に建てられた「旧瀬戸陶磁器陳列館」をここに再現しています。

 そして駅前までの間にある近代的で巨大な建物が「瀬戸蔵」です。
1階は陶器の販売を行う店が入っています。
今回目指したのは、2階にある「瀬戸蔵ミュージアム」です。
入口を入りまず目に入るのが、電車と駅舎です。
尾張瀬戸駅の旧駅舎を再現したもので、1905年の瀬戸線開業時の姿を現しています。
瀬戸で作られた瀬戸焼のせとものは、ここから電車で名古屋まで運ばれました。
そして名古屋港で船積みされて、日本の一大輸出品として海外で喜ばれたものです。
また館内には陶房(モロ)の再現されており、動力を使って粘土を練り、ろくろを回すなどの自動化をしていた当時の姿を見ることができます。
成形された粘土は乾かせて窯焼きをし、最後に絵付けをしたものを束ねて運ぶまでを職人の働きを学ぶことができるのです。

 「せともの」の語源になった瀬戸の町を、歩き回った1日でした。
これで少しは「やきもの」を知った気がします。

   
   
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