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[旅の日記]

岡崎城と八丁味噌 

 本日は徳川家康のゆかりの地、岡崎を旅します。
愛知環状鉄道線の中岡崎駅からのスタートです。

 この近辺には2つの「八丁味噌」の蔵元があります。
カクキューの合資会社八丁味噌と、まるや八丁味噌です。
いずれも工場見学ができ、味噌の製造工程を見ることができます。
今回はカクキューの「八丁味噌の郷」にお邪魔することにします。

 工場の売店で整理券を受け取り、指定の時間まで20分ほど待ちます。
ちょうど味噌ソフトクリームが売られていますので、時間つぶしに頼んでみます。
どことなく色づいたソフトクリームはチャラメルの風味がし、かつて銚子で食べた醤油を用いたソフトとどことなく似ています。

 そうこうしていると時間がきて、10名ほどのグループで本社工場の敷地内に通されます。
ここからはガイドがついて、味噌造りの説明をしてくれます。
「八丁味噌」とは、米麹や麦麹を用いず原材大豆の全てを麹にした豆麹で作られる豆味噌のことで、赤褐色をしています。
岡崎で収穫される矢作大豆と知多の塩を用いて、ここ八丁村で作られていたことから、「八丁味噌」と呼ばれています。
八丁村は岡崎城より西へ八町離れたところにあることから、そう呼ばれてきました。

 工場内には1907年にできた仕込み用の蔵が残されており、資料館として活用されています。
味噌になるには蒸した大豆を拳大の大きさに丸め、麹をつけて発酵させたものに塩と水を加えてこねます。
これを熟成させてできるのが、おなじみの味噌なのです。
そんな味噌造りの工程が、職人を模った人形とともに紹介されています。

 味噌造りの基礎知識を頭にいれたうえで、次には実際の味噌の製造現場を回ります。
倉庫には大きな味噌樽が並び、蓋をした樽の上には石がピラミッド型に積まれています。
この状態で2年以上の歳月をかけて、天然醸造されます。
その間の腐敗を防ぐために、濃い塩分の味付けになっています。
このことが「八丁味噌」に独特の旨味を引出しています。
年単位の時間と手間暇かけて造られる味噌に、改めて驚かされたのでした。

 工場見学の最後は、味噌の試食です。
先ずは「八丁味噌」、そして赤だし、味噌タレをかけたこんにゃくと順に味見します。
やはり普通の「八丁味噌」の方が、コクがあり好きになる味です。
それに赤だし味噌のお土産が付いて、工場見学は終わります。


 岡崎に来たからには寄りたい場所が、もう一ヶ所あります。
三河国守護仁木氏の守護代西郷氏が、1452年に築城した「岡崎城」です。
龍頭山の砦として造られました。
1531年には城主となった松平清康が城郭を整備ますが、森山崩で家臣の謀反により命を落とします。
そして1542年には松平清康の子 竹千代が生まれます。
竹千代こそが松平元康で、後に天下を取ることになる徳川家康です。
その時城主であった松平清康の子である松平広忠も1549年に家臣の謀反によって殺害され、「岡崎城」は今川家の支城となります。
ところが桶狭間の戦いで今川義元は敗死したのを機に、松平元康は岡崎城を取り戻します。
松平元康は名を徳川家康と変え、今川家から独立して居城を浜松へ移します。
代わりに「岡崎城」を守ったのは、家康の子である松平信康です。

しかし信康は謀反の疑いをかけられて自刃し、その後の「岡崎城」は本多氏などが幕末まで城を守ってきます。

 城内には「龍城神社」があります。
「岡崎城」を築城した時に現れた龍神を祀っている神社で、徳川家康を祭神としています。

 また家康が生まれた時に産湯に使用したとされる井戸が残っています。
「東照公産湯の井戸」と言い、石で作られた柵のなかに問題の井戸があります。

 ここで昼食にすることにします。
城内には「八丁味噌」を使った料理を出す店があります。
人気があるらしく、入り口には列ができています。
岡崎に来たからには、並んででも食べたいものが八丁味噌田楽です。
2本の串に刺された味噌いっぱいの田楽をおかずに、ご飯を頂きます。
味噌の濃くあまじょっぱい味が、口の中で広がります。
肉や魚があるわけでもないのですが、意外とご飯が進むのでした。

 家康の城というイメージが強い「岡崎城」だけあって、城内には家康の銅像が飾られています。
でも家康にとっては人質として生活していた時期の方が長い「岡崎城」ですから、この城にどんな思いを寄せていたのでしょうか。

 そんな家康の生涯を物語る「三河武士のやかた家康館」が併設されています。
もっともここでの展示内容は家康のことはもちろんのこと、それよりも展示の多くを割いているのは天下取りに至った「関ヶ原の戦い」を模型によって解説しています。
1600年の美濃国不破郡関ヶ原で起こった徳川家康と豊臣秀吉との天下分け目の戦いは、あまりにも有名です。
家康率いる東軍に対し、石田光成を始めとする西軍 秀吉方との戦いは、当初は西軍が有利に繰り広げられました。
しかし小早川秀秋や吉川広家などの多くの西軍大名が東軍に寝返ったことにより、形成は逆転します。
冷静沈着で用意周到な家康の勝利であったことを、うかがい知ることができるのです。

 さてこの後は、散策のため町に繰り出します。
「岡崎城」を大手門から出て東岡崎方向に歩いて行きます。
途中に「龍田公園」がありますが、さらに東へ進みます。
そして煉瓦がきれいな「岡崎信用金庫資料館」に辿り着きます。
ここは旧商工会議所でもあったところで、1917年の岡崎信用金庫本社の建物です。
1890年に岡崎の有力者によって設立された岡崎銀行は、伝馬通りに本店ビルを建設することになりました。
こうしてできたのが、今見ている煉瓦造りのビルなのです。
その後岡崎信用金庫は東海銀行銀行と合併し、東海銀行自体も三菱東京UFJ銀行に吸収されてしまいます。
本社ビルは第2次世界大戦の空襲に合い廃墟同然となってしまいましたが、岡崎商工会議所が建物を買い取り補修して蘇ることになります。
しかし岡崎市の発展とともに手狭となった会館に対し、岡崎商工会議所は新所舎を建設し移転することになります。
旧岡崎銀行本店ビルは取り壊される運命でしたが、地元の声もあって保存されることになり今にその姿を残すことができたのです。

 さらに旧東海道を東へ進みます。
旧東海道の赤坂宿があるこの辺りは「岡崎二十七曲」と呼ばれ、曲がり角の多い場所です。
通りの交差点で右に左に折れ曲がります。
通りには観光用の看板が整備されているため、迷うことなく旧東海道を進むことができます。

 旧東海道を歩いていると、歩道と車道の間にいくつもの小さな石像が並んでいる個所があります。
「石の彫刻」と呼ばれるところで、宿場町であった岡崎の歴史を石像で物語っています。
屋敷で振舞われていたご馳走や東海道を行き交う旅人、「岡崎宿」の遊女、茶壺などが、石で再現されています。
これらをおもしろく眺めながら進んで行きます。

 そして最後に訪れたのは「欠町 二十七曲の碑」です。
江戸から来れば「岡崎宿」の入り口になるのが、この辺りだったのです。
ここから、先ほど訪れた「八丁味噌」の蔵が並ぶ矢作橋までが「岡崎宿」で、東海道屈指の規模を誇る宿場町だったのです。

 「岡崎城」とそれを形作る「岡崎宿」、そこから発展した「八丁味噌」など、あまり期待せずに行った割には見所が多い岡崎の町でした。

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