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[旅の日記]

戦乱の世を生抜いてきた清洲城 

 本日の旅の舞台は、清洲です。
東海度新幹線に乗るとき、決まって2人席の窓側を取ります。
理由は朝陽、夕陽で眩しくないこと、そして富士山が見えるからです。
鳥飼の新幹線基地が見えるのも、嬉しいです。
そんな中、ずっと気になっていたことがあります。
名古屋駅の少し大阪寄りのところに、鮮やかな城が見えるのです。
いつか訪れてみようと思いながらも、やっと機会がやってきました。

 鮮やかな城は、織田信長が愛した「清州城」です。
1405年に幕府官領の斯波義重により、尾張守護所である下津城の別邸として築城された城です。
斯波義重の孫である義敏の時代に、戦乱にて消失した下津城に代わり、清洲城が守護所として機能するようになるのが1476年のことです。
やがて織田信長の父である信秀が、清洲奉行として清洲城を居城とします。
その後、織田信友が入城するものの、1555年には織田信長・織田信光らに殺害され、以降信長が本拠として居城することになります。
この時城の大改修が行われ、桶狭間の戦いに出陣したのもこの城からです。
そして1562年には、信長と徳川家康との間の清洲同盟がこの城で結ばれます。
1582年に本能寺の変で信長が倒れると、ここであの有名な「清洲会議」が行われ、次男の織田信雄がその城を相続することになります。
その後、小田原征伐後の豊臣秀吉の国替え命令に信雄が逆らって除封され、1595年には福島正則の居城となります。
1600年の関ヶ原の戦いのおりには東軍の後方拠点として利用され、安芸に転封した福島正則に代わり徳川家康の四男 松平忠吉が入るものの、関ヶ原の戦傷がもとで病死してしまいます。
そこで1607年に忠吉の九弟である徳川義直が入城し、清洲藩の本拠となりました。

 「清洲城」は城に入る橋の欄干の朱色の鮮やかさと、城にも使われる朱色が映て、実に豪華な城に見えます。
中は資料館になっていて、清洲の町の歴史や歴代の城主の活躍が展示されています。

 「清洲城」の橋の入口側は、観光センターになっており無料休憩所や土産販売所となっています。
ここの地下1階で甲冑を製作実演じているところがあります。
「清洲甲冑工房」で、アルミの板を局面の付いた治具に合わせて、トンカンと叩きながら形作っていきます。
訪れた時はちょうど実演時間で、何人かの職人が互いの持ち場をこなしていました。

 センターの周りは大きな駐車場になっていますが、その一角に緑の小高い丘があります。
ここは「清洲古城跡公園」で、織田信長を祀っている小社が丘の上に建っています。
その横には「織田信長公古城跡」の石碑があります。
この場所からも、清洲城天主閣を臨むことができるのです。

 さらに西へ進みましょう。
道の脇に木造の門が見えます。
「清洲宿本陣跡」で、参勤交代、海外からの勅使などが宿泊した場所で、美濃路の中では最も大きな建物でした。
濃尾地震で多くが焼失し、今残っているは正門のみとなりました。
ちなみにその隣には、立派な建物のお医者さんがあります。

 その裏側の木がうっそうと茂ったところが、「上畠神明社」です。
清須三社のひとつで、ここから清洲城天守を挟んだ北側にある御園神社が清洲の内宮ならは、ここは外宮と言われています。

 ここから南側には、「洪福山清凉寺」があります。
土田にあった正法庵ですが、火災を機に寛永年間にこの地に移され「清涼寺」と改められます。
山門上層に鐘つき堂があり、この鐘は清洲宿内に時を知らせていたもので、尾張に残る時鐘として貴重なものです。

 さて小腹がすいたので、ここで食べたかつ丼は味噌味のソースが掛かったもの。
さすが名古屋、どこへ行っても味噌味だなと、感心しました。
狭い清洲の町でしたが、新幹線から見えてずっと気になっていた清洲城を訪れることができ、胸につっかえていたものがとれてすっきりしたような感じです。

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