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[旅の日記]

伏見から四間道 

 そろそろ冬に差し掛かろうとする今回は、秋の名古屋を訪れてみます。
名古屋駅から名古屋市交通局の地下鉄東山線に乗り、1駅先の伏見に向かいます。

 伏見に着いた時には、日が暮れようとしていました。
足早にこの辺りを見て回ります。
「御園座」は、1895年に名古屋の財界有志により造られた名古屋劇場がはじまりです。
東京の明治座を手本とした劇場を造り、1896年にこけら落としを行いました。
その後の1935年には新しい劇場が完成しますが、名古屋大空襲で全焼してしまいます。
1947年に再建されたものの、1961年の火災で再び焼失してしまいます。
その後再建された劇場には名前が御園座会館となり、御園座演劇図書館も併設されました。
ところが経営難で2015年に閉館してしまいます。
今の建物は建築家の隈研吾が監修した「グランドメゾン御園座タワー」で、劇場とマンションを兼ねたビルです。

 さらに南に向かいます。
そこに「白川公園」があります。
公園内の「名古屋市科学館」は、地球儀のような球状の建物が特徴的です。
公園の噴水と相まって、近代的でありながら心休まる場所です。
ここの目玉であるプラネタリウムをはじめ、自然科学の紹介がされています。
入り口横には、今は亡き名古屋市電が展示されています。
公園内には「名古屋市美術館」もあり、名古屋の文化が詰まった一角です。

 さてここから栄方向に向かい、そこで夕食とします。
名古屋に来た時には必ず食べるものがあります。
味噌の入った甘いソースで食べるとんかつ「みそかつ」です。
今回は大きな肉が自慢の「わらじとんかつ」を注文します。
ビールでのどを潤しさくさくのとんかつに頬張るといった、最高の時間でした。

 ここから丸の内にあるホテルに入るのですが、名古屋でもうひとつ外せないものがあります。
手羽先を買いに走ります。
名古屋の2大手羽先店である「やまちゃん」と「風来坊」ですが、今回はコショウが病みつきになる「やまちゃん」の手羽先を買って帰ることにします。
ホテルについてもこの手羽先のおかげで、もうひと盛り上がりしたのでした。

 そして次の日は、名古屋駅東側に広がる城下町の面影を探索します。
地下鉄丸の内駅から、桜通りを西に向かって進みます。
ちょうど、名古屋駅めがけて歩いて行く格好です。
とそこに、堀川を越える橋があります。
橋の上には、多くの電灯を束ねたような面白い形をした街灯があります。
そこを越えた2筋目が、古い町並みが残されている通りです。
「四間道(しけみち)」の石の標識が建っています。

 最初に目に入るのが、「浅間神社」です。
名古屋にはいくつかの浅間神社があり、名古屋城の築城に伴いこの地に建立したり移設したものが多い中、ここ那古野の浅間神社は名古屋城築城以前からあった神社です。
1647年に、この地に遷されたとの記録があります。
名古屋駅の雑踏がすぐそばだというのに、境内には静けさが漂っています。

 この「四間道」の1筋違いの堀川に沿った道が、昔の「美濃路」です。
美濃、清須方面と熱田を結ぶ重要な通りだったところです。
尾張藩4代藩主の徳川吉通は、度重なる火災が商家へ延焼することを防ぐために、美濃路と四間道の間に土蔵を並べます。
その際中橋から五条橋にかけての道幅を4間に広げたことから、この通りが「四間道」と呼ばれるようになったのです。

 その「四間道」で見られるのが。「伊藤家住宅」です。
米穀問屋を営んでいた尾張藩の御用商人の屋敷です。
本家、新座敷、南座敷、4棟の土蔵があり、江戸時代の商家の様子をそのまま残しています。
名古屋城の築城に伴い家康が行った清洲から名古屋への都市の移転、いわゆる清須越しによって、伊藤家もこの地に越してきました。
呉服問屋の伊藤家(現在の松坂屋)と区別するために、堀川の近くにあったこの伊藤家は川伊藤家と呼ばれていました。

 その先に西に向かうよう導くかのように、「子守地蔵尊」ののぼりが並んでいます。
それにつられて路地に入っていきます。
そこにあったのが「子守地蔵尊」です。
安政の時代に井戸を掘っていたところ、土の中から30cmほどのお地蔵さんが出てきました。
お地蔵さんには「宝永七年」という刻銘があり、発見した時よりさらに150年も前に作られたものが洪水で流れ着いたのでしょう。
掘り出して祀ってほしいというお地蔵さまの願いに応えたと喜ばれ、手厚く祀ることにしました。
その後の1895には御堂も建てられ、今も大切に保存されているという心温まるお話です。

 さて「四間道」に戻り再び北に進むと、商店街に出ます。
ここは「円頓寺商店街」です。
大須などとともに昔から続く繁華街で、現代風の店に混ざって老舗店舗も軒を並べています。
そこで見つけたのが、いかにも年季の入った看板を掲げる酒屋です。
「伏見の酒」の文字が、購買意欲を駆り立てます。
東の堀川に向かって、商店を眺めていきます。

 商店街を抜けて、堀川に架かる「五条橋」に出ました。
橋の擬宝珠には1602年(慶長7年)の文字が刻まれています。
かつて清洲城下の五条川に架けられていた橋を、清洲越しの際にこの地に移築したものです。
そして堀川は名古屋城築城と同時に、徳川家康が当時広島藩主だった福島正則に造らせた運河です。
築城のための資材を船で運ぶために、熱田までの6kmを掘ったものです。
堀川ができたことにより信州木曽の木材が豊富に運び込まれるようになり、堀川沿いには木材問屋や木工職人が多く住みつくことになります。
やがて豪商の蔵が建ち並ぶようになり、ここ那古野がさかえることになったのでした。

 大都会名古屋のビル群の谷間にひっそりと残る那古野です。
第2次世界大戦の戦火も逃れ、今こうして当時の面影を残す貴重な地区だったのでした。

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