にっぽんの旅 東北 山形 鶴岡

[旅の日記]

庄内藩の城下町 鶴岡 

 酒田からJR奥羽本線に乗り込み、鶴岡へ向かいます。
列車から外を見ると、鳥海山がずっと電車のいくえを見守ってくれます。
そうしたなか揺られること30分、庄内藩酒井氏の城下町として盛えた鶴岡に着きました。
ここから鶴岡の町を巡ってみましょう。

 鶴岡城跡をはじめとする鶴岡の観光地は、駅から2kmほど離れたところに集まっています。
町を眺めながら、ボチボチと歩いて行くことにします。
駅前通りをまっすぐ進み商店街のアーケードが切れた辺りに、「山王日枝神社」があります。
出羽国田川郡大宝寺村(現鶴岡市)が創設されたときには、既に存在していたといわれる古い社です。
樹齢300年の大ケヤキに守られ、「お山王はん」と呼ばれて市民に親しまれています。

 ここから境内に沿って、右手に進路を変えます。
山王通りを歩いて行くと、やがて内川にぶつかります。
大泉橋を越えて、対岸の銀座通りを進みます。
新しい小奇麗な商店街で、店や銀行が並んでいます。
しかしこの商店街を歩くのもつかの間、すぐに右折して再び内川を越えます。
そう、この辺りで内川は90度に流れる方向を変えているため、こうして何度も川を越えるのです。

 千歳橋を渡り、その先には「庚申堂」があります。
ここは、鶴岡城下で庄内藩の御用商人として発展し、後に鶴岡一の豪商となった風間家の屋敷です。
1896年、武家屋敷があったところに風間家7代当主 幸右衛門が住居兼店舗として建設しました。
薬医門をもつ商家として知られ、繁栄のすごさを見せつけられます。
木の皮を敷き上から石で抑えた屋根の構造は、庄内地方に伝わるものです。
隙間なく敷き詰められた屋根の上の石には、ある種独特の美しさがあります。
「庚申堂」の2階に上ると、その様子を手を取るように見ることができるのです。

 「庚申堂」から道を隔てたところには、「釈迦堂」があります。
風間家の別邸として、1910年に建てられたものです。
主に来客の接待用として使われてきました。
これを見ても、当時の風間家の羽振りの良さが見て取れます。

 「庚申堂」から1筋南のところには、「鶴岡カトリック天主堂」があります。
布教師としてフランスから来日したダリベル神父が建てた教会です。
家老末松十蔵の屋敷を購入し、1903年に礼拝所を開設します。
家老の屋敷跡だけあって、日本式の門を潜って敷地内に入ります。
するとそこには、ロマネスク様式の白い壁と赤い屋根を持つ塔がそびえています。
教会の中に入ると、聖堂の左側にある副祭壇には「黒いマリア像」が安置されています。
フランスのデリヴランド修道院から贈られたもので、日本中でここだけにしかない珍しいものです。

 さてここからは、「鶴岡城址」方向に少し歩いて行きます。
鶴岡市役所の近くに「致道館」があります。
酒井家9代目 忠徳が創設した鶴岡藩の藩校で、孔子の教えを基に人材の育成を目的に1805年に造られました。
自主性を重んじながらも質実剛健の精神を育てるといった、鶴岡藩の人重視の考え方を示すものです。
明治に入り1873年の廃校に至るまでの間、ここで武土道を教えてきました。
廃校後は鶴岡県庁舎、鶴岡警察署や朝陽第一・第二尋常小学校などを経て、現在の遺構公開に至っています。

 ここからは再び「鶴岡城址」に向かって歩いて行きます。
「鶴岡城」は、天守を構えず本丸東北隅に2層2階の隅櫓、そして二の丸南西隅に2層2階の隅櫓が設けられていた城で、今はその姿を残しておらず「鶴岡公園」として城址が利用されています。
鎌倉時代に出羽国大泉荘の地頭として頭角を現した大泉氏が、鶴ヶ岡城の前身となる大宝寺城を築きます。
室町時代になると、武藤長盛がこの地を治めることになります。
戦国時代に入るとこの地も戦乱に巻き込まれ、庄内地方は上杉氏と最上氏の争奪の場となります。
そして1588年に上杉景勝によって、この地は支配されることになります。
1600年の関ヶ原の戦いの後、西軍に加担した上杉氏に代わってこの地を支配したのは、山形城を本城とする最上義光です。
義光は大宝寺城のほかにも東禅寺城、尾浦城を整備し、庄内地方の拠点造りを始めます。
この時、東禅寺城を亀ヶ崎城、そして大宝寺城も鶴ヶ岡城と改称していきます。
最上家の後に庄内に入ったのは酒井忠勝で、忠勝は鶴ヶ岡城を本城と定め城の大改修を進めていきます。
こうして近代城郭の「鶴岡城」が生まれたのです。
それ以降、酒井家はこの地を安定して支配し、鶴岡の町も大きく発展を続けます。
ところが1868年より始まった戊辰戦争で奥羽越列藩同盟として会津藩とともに最強硬派として官軍と戦い、新政府軍に降伏して明治の世に入っていくことになるのです。
1877年には本丸跡に酒井忠勝を祀る「荘内神社」が設けられました。

 「鶴岡公園」は藤とあやめが咲き誇っています。
陽が傾き時間切れとなった本日の鶴岡散策は、あやめ園を眺めたところでこれから先を明日に残すことにします。
それでは、鶴岡駅に戻ることにします。

 鶴岡で食べたかったものがあります。
「麦きり」というもので、小麦粉をこねたものを包丁で切ったことからこう呼ばれています。
うどんが大麦粉を使うのに対して、「麦きり」は小麦粉です。
本日の夕食は、そばと「麦きり」の2色盛りを注文します。
自分へのご褒美としてビールと天ぷらを頂き、「麦きり」ができるのを待ちます。
そしてついにやって来た「麦きり」です。
麺はうどんより細く蕎麦より若干太いもので、のど越しが良くいくらでも入っていきます。
美味しく頂いたのでした。

     

 ホテルでぐっすり休養も取れ、2日目は昨日の続きの「鶴岡公園」からの始まりです。
さすがに歩き疲れたのか、鶴岡駅前からはバス乗って移動します。
「鶴岡公園」には、「大宝殿」という立派な洋館があります。
大正天皇の即位を記念して、1915年建てられた洋風建築物です。
黒屋根白壁の洋館の中央には、赤いドームがそびえ立っています。
物産陳列場だったところを市立図書館として利用していましたが、今では鶴岡が生んだ高山樗牛や松森胤保などの資料が展示されています。

 それではその先の「致道博物館」に寄ってみましょう。
「致道博物館」は1950年に、旧庄内藩主酒井氏によって寄付された建物や文化財を集めたものです。
敷地内には移築された集められた複数の建物や展示場があります。
そのうちのひとつで、芝生の真ん中を貫く道を進むと、その先に洋館があります。
初代県令の三島通庸の命によって1881年に創建された「旧西田川郡役所」で、左右対称の建物の中央にはバルコニーと時計台を備えた塔が建っています。
中には、戊辰戦争から明治文明開化までの資料が並んでいます。

 同じ敷地内の立派な入口をもつ和風の建物は、「旧荘内藩主御隠殿」です。
11代庄内藩主 酒井忠発の隠居所です。
江戸から西廻り航路で酒田へ運ばれてきた木や瓦が使われています。
鎧兜や調度品が展示されています。

 「旧渋谷家住宅」は1882年の建物です。
多層民家と呼ばれる民家で、雪深い山あいに建てるための構造です。
2階以上は養蚕などの作業場となっており、そこに通風と採光のための高ハッポウとよばれる高窓が取り付けられています。
この茅葺き屋根の建物は、カブト造りと呼ばれるものです。
そのひとつがここに保存されているのです。

 「旧鶴岡警察庁舎」もこの「致道博物館」にあるのですが、訪れたときには改修工事中でガラス越しから白壁を眺めるだけでした。
またいつか来なければなりませんね。
そうして珍しいもの満載の「致道博物館」に満喫したのでした。

 最後に訪れたのは、「羽前絹練」です。
1906年創業の会社で、鶴岡絹織物を造っています。
鶴岡は日本の最北限の絹産地で、鶴岡シルクの名で世に知られる蚕種から絹製品までの一貫した生産拠点です。
そして洋装分野の絹織物では日本一の生産量を誇っているのが、ここ「羽前絹練」なのです。
先ほど見てきた「旧渋谷家住宅」の蚕小屋が、ここでひとつにつながったのです。

 ここで2日間かけた鶴岡の散策も、一通り廻りつくしました。
駅に戻って、庄内地方の特産品 だだちゃ豆で作られた饅頭が今日の土産です。
そうそう忘れてはならないもので、水の美味しいところに銘酒ありで、庄内の米と水を使った酒を自分土産に買って帰ったのでした。
そしてもうひとつのサプライズが。
列車に乗ろうとすると、そこには昔懐かしの国鉄時代の車両が入線してきたのです。
それも現役で営業運転をしていることに、びっくりするのです。

 「鶴岡城」をその周りに点在する歴史的建造物、これら鶴岡の経済を支えてきた鶴岡藩の功績を巡った旅でした。
サクランボとは違う山形を再発見したのでした。

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