にっぽんの旅 東北 山形 酒田

[旅の日記]

東の自由都市 酒田 

 本日は、酒田を巡る旅です。
今いるのは、舟のモニュメントが飾られたJR酒田駅です。
日本海に面する庄内平野に広がる酒田は、「西の堺、東の酒田」とも言われるほど栄えていました。
1672年に河村瑞賢が西廻り航路を整備すると、港町として重要な位置を占めてきたのです。
それでは、酒田駅から少し離れた町の中心に向かって歩いて行きましょう。

 駅前の通りを西に進み、ほどなく見えてくるのは「八雲神社」です。
素盞鳴尊(牛頭天王)を祭神としており、別名を「キュウリ天王山」といいます。
これは祭礼でキュウリをお供えし、ご祈祷していただいたキュウリを食することで無病息災を祈願することから、こう呼ばれるようになりました。

 その先で南に向きを変え、「酒田港」の方向に進みます。
「酒田魚市場」では水揚げされたばかりの魚介類が並べられ、活きの良い魚を買い求める人が集まってきます。
また隣の「みなと市場」では鮮魚の他に、野菜や特産品、酒などを備える店を構えています。
この近くに朝早くから開いている美味しいラーメン屋があると聞き、店を探します。
店の前には列を作って並んでおり、すぐに判りました。
注文したのは「船麺」という、汁なし混ぜそばです。
丼の底に汁が溜まっていて、麺を混ぜていただきます。
塩気が効いており、小さく刻まれたチェーシューも量があり、予想以上にお腹がいっぱいになったのでした。

 それでは食事のためにひたすら歩いてきた酒田の街並みを、改めて巡っていきます。
まずは、酒田の歴史を振り返ってみましょう。
平泉で栄華を放ってた平泉藤原氏ですが、4代泰衡が倒されて1189年に滅亡を迎えます。
この時に秀衡の妹 泉の方が、36騎の従臣たちを従えて酒田に逃れてきます。
ここに泉流庵という尼寺を建て、ここで藤原一門の冥福を祈り続けます。
酒田に住み着いた36人の遺臣達は、ここで回船問屋を営んで港の繁栄を支えていきます。
そして戦国時代を迎え世の中は戦乱の世へと突入しますが、酒田は堺や桑名のように3人の月番で町行事や町政を担当する三十六人衆を中心に、自由都市として発展を続けるのです。
戦国時代の末には上義光が庄内を治め、1622年には酒井忠勝が庄内藩の藩主として入りますが、酒田は変わらず三十六人衆による自治体制を敷き町政を担当してきました。
名字、帯刀を許され、宅地も無税の扱いを受けていたのです。

 そんなところに「舞娘茶屋 相馬樓」はあります。
江戸時代の酒田を代表する料亭であった「相馬屋」を修復したものです。
表は高貴な色とされる赤色で飾られています。
木造の主屋は1894年の庄内大震災の大火で焼失してしまいますが、その直後に残った土蔵を取り囲んで建てられたものです。
1階を茶房、2階の大広間は食事のできる演舞場に、また「竹久夢二美術館」も併設されています。

 「舞娘茶屋 相馬樓」の先には、風格のある和風の建物があります。
「山王くらぶ」で、1895年建築の料亭です。
酒田で1,2を争う格式を誇った老舗料亭で、部屋毎に備える銘木を使った床の間や組子建具は、贅沢な造りをしています。
北前船で賑わった酒田の様子や、日本三大吊るし飾りである傘福が展示されています。

 海側には「日和山公園」があります。
公園内には日本最古級の木造六角灯台があり、酒田の反映に寄与した千石船の1/2モデルも展示されています。
春には400本の桜が咲き誇る花の名所でもあります。

 そして公園の一角には白い洋風の建物があります。
1919年に建てられた「旧白崎医院」で、酒田市唯一の大正期の木造洋風建築です。
酒田市大火後に見舞われたこの地で、ほぼ完全な形で大正の建物が残っている貴重なものです。
保存するために現在地へ移転し、公開されています。

 公園の通路の脇に、鉄筋3階の洋館と木造2階の和風建築物がうまく調和した建築物があります。
「旧割烹 小幡」で、映画「おくりびと」のロケ地となったこともあり、この光景は脳裏に焼き付いています。
「おくりびと」は2009年のアカデミー賞を受賞し、国内外で称賛された有名な作品です。
おりしも本日は「酒田まつり」が開催されて入り、「日和山公園」から続く通りも人であふれ返っています。
それでは、その「酒田まつり」の舞台である「下日枝神社」を訪れてみましょう。

 江戸時代から続く「山王祭」は山車が練り歩くことで有名で、「上・下日枝神社」の例大祭です。
1976年に酒田市に大火が起こり、その後の復興を機に名称を「酒田まつり」に改めました。
随神門を潜り奥の社殿に向かうと、そこでは多くの人が集まり祭りの祈りが捧げられています。
社殿内には、豪商などに寄進された豪華な絵馬も飾られています。
「下日枝神社」は通称「下の山王さん」と呼ばれ、酒田の人々に親しまれています。

 ここからは再び「酒田港」まで戻ります。
港の近くで「新井田川」を渡ったところにある「山居倉庫」を訪れます。
酒田で最も行きたかったところです。
米どころ庄内のシンボルとなる「山居倉庫」は、1893年に建てられた米を保管するための倉庫です。
白壁で土蔵造り9棟からなる倉庫で18万俵(10,800トン)の米が収容でき、米の積出港である「酒田港」に米を供給してきました。
夏の高温防止のために、倉庫の周りにはケヤキ並木を配しています。
また二重屋根にして湿気防止にも対応してきました。
現在も現役で使われている農業倉庫なのです。
そしてここは、朝の連続テレビ小説「おしん」のロケーション舞台にもなりました。

 また「山居倉庫」には、「庄内米歴史資料館」が併設されています。
「山居倉庫」の倉庫1棟を改装し、庄内米の歴史や品種改良の様子が展示されています。
「ほとめぼれ」や「つや姫」などの庄内米と米どころ庄内が、紹介されています。
米俵が積まれている様子には、圧倒されたのでした。

 さてここからは、三十六人衆の足跡を訪れてみます。
その途中にある「酒田町奉行所跡」は、最上義光が庄内を領有した時に、高橋伊賀が住んでいたところです。
町代官であったこの場所ですが、その後は明治維新までの間、町奉行所として役所の機能を果たしてきました。
現在ではその一部が、残されています。

 その先に「本間家旧本邸」はあります。
1768年に本間家3代光丘が、藩主酒井家のために建てた屋敷です。
旗本二千石格式の長屋門構えの武家屋敷で、幕府巡見使用宿舎として建てられたものです。
その後は本間家代々の本邸として使用され、1949には中央公民館、そして今は内部を観光用に公開しています。
道路の反対側にある別館「お店(たな)」では帳場や度量衡などが展示され、土産店として営業しています。

 そのそばには、「旧鐙屋(あぶみや)」があります。
日本海の海運に大きな役割を果たし、その屋敷のすごさが判ります。
屋根に杉の木の皮を敷き、石を乗せて重しにした石置杉皮葺屋根をもつ、この時代の典型的な町家造りです。
中に入ると、まずは金屏風が目を引きます。
その先に土間が家の奥まで伸び、土間に面していくつもの部屋が並んでいます。
そしてこの「鐙屋」は酒田三十六人衆の筆頭格として町年寄役を勤め、町政に重要な役割を果たしてきました。
「酒田まつり」のこの時期だけは、幸いにも無料で見学することができたのでした。

 それでは、ここで昼食としましょう。
食べてばかりでちょっとお腹は持たれ気味ですが、寿司屋に入ります。
新鮮な魚が食べられるだけでなく、ここでぜひ食べたいものがあるのです。
酒田で古くから食べられている「むきそば」です。
収穫したそばの実を殻をむかずに茹でたもので、茹で上がると殻から実を取り出して、だし汁をかけて食べます。
あられを食べるような感覚で、そばを食べることができる面白い食べ物です。
元々は精進料理として関西の寺院で食べられていたものを、酒田の料亭で提供したのがはじまりだということです。

 お腹も膨れて、あとは祭りを観るだけです。
山車が練り歩くまでまだ少し時間があるのですが、既に交通規制がかかって車が通らない車道に足を放り出して、歩道に腰を掛けて待ちます。
通りの左右の脇には赤黒2体ずつの大獅子の山車があり、口を開けて待っています。
悪病、災害よけの霊獣として信仰される大獅子ですが、口に人間が入ることができます。
上下に動く口に入って噛まれようと、子供たちが列を作っています。
やがてお囃子の笛と太鼓の音が聞こえてきます。
いよいよ山車の巡行です。
神輿や船型の山車、それに天狗のかぶりものなど、さまざまの思考を凝らした出し物が続きます。
途中酒の振舞いもあって、見ているだけで楽しめる祭りでした。

 酒田駅のそばには、「本間美術館」もあります。
本間家4代目の光道が1813年造った別荘で、日本の代表的な庭園のひとつに数えられています。
古書や絵画等の美術品が陳列されています。

 春の晴れた天気の良い日に、酒田で過ごした1日でした。
歴史のある山形で、人々が一団となって繰り広げる熱気ある祭りに触れ合うことができたひと時でした。

   
     
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