にっぽんの旅 東北 岩手 盛岡

[旅の日記]

岩手の中心 盛岡 

 本日は仙台に次ぐ東北の都市、盛岡を訪れます。
気候の良い温かい時期に旅するところを、東北の冬を知るためにあえて雪深い2月に訪れます。
まぁ、冬料金でホテルが安いことも大きな原因だったのですが。

 盛岡駅は案の定、雪で埋もれています。
駅前は道が判るものの、少し離れると歩くことすら苦労しそうです。
まずは腹ごしらえです。
朝からガッツリ「もりおか冷麺」の店を探して歩きます。

 道路は「北上川」を越えていきます。
川の両岸は一面の銀世界です。
そこに雪が顔をめがけて吹き込んできます。
まさに東北の冬を体験したのです。
雪に慣れていないものにとって、氷のうえに積もる雪をかき分けて歩くことは至難の業なのです。

 大通3丁目まで来ると、アーケード街があり賑やかになってきます。
ここまで来ると、ちょっと救われた気分になります。
「もりおか冷麺」の店は、通りを1本入ったところにありました。
周りには風俗店も立ち並び、夜には灯りが眩しい街になることでしょう。
早速店に入り、ストーブの前の席を分捕って注文をします。
やって来たのは、透き通るような麺と、その周りに並ぶキュウリとリンゴです。
このリンゴは、恐らく夏になるとスイカに代わることでしょう。
そんな思いを巡らせながら、麺を口に運びます。
甘いスープに浸かった透明の麺は、思いのほかモチモチしていて腰があります。
食べる終えると、お腹はいっぱいです。
腹も膨れ身体も温まったので、次なる目的地に向かいます。

 次に訪れたのは、「啄木新婚の家」です。
ここ盛岡が生んだ偉人は宮沢賢治があまりにも有名ですが、石川啄木も盛岡出身なのです。
1886年に岩手県南岩手郡日戸村(今の盛岡市日戸)に寺の住職の長男として生まれます。
盛岡尋常中学校では、3年先輩に金田一京助がいる文学に事欠かない恵まれた環境に育ちました。
ちなみに宮沢賢治が入学したのは、その10年後のことでした。
妻となる堀合節子ともこの中学で知り合うこととなります。
啄木は「明星」を読んで与謝野晶子の短歌に興味を持ち、文学への志を抱くことになります。
「岩手日報」に短歌を発表し、「翠江」の名で精力的に活動し始めます。
しかし結核を患い、1903年には地元に帰ることになります。
1905年には堀合節子と結婚し、この「啄木新婚の家」で暮らしたのです。
しかし生活は苦しく、わずか3週間で盛岡市加賀野磧町に転居してしまいました。
その後は渋民尋常高等小学校に代用教員として勤務し、1907年の北海道行きまでのしばらくは落ち着いた生活が続いたのでした。
北海道そして東京でのその後の啄木の動きについては、北海道の紀行記に任せることにします。

 この「啄木新婚の家」には、啄木直筆の書や写真が展示されています。
そして随筆「我が四畳半」も、この家4畳半の書斎が舞台となっているのです。
と、ここでハプニングが。。。
雪道に慣れていない都会の人間にとって、凍り付いた道路の上にあたかも新雪が積もったように覆いかぶさっているところを歩くのは至難の業です。
滑るたびに歩幅や体重の移動方法を微調整してきましたが、ついにスッテンコロリンと背中から道路に叩き付けられる羽目になりました。
腕時計のメタルバンドが切れるほどの大胆な転び方をしてしまいます。
足跡を見ると、靴底の凹凸がほとんどなくとても雪国には到底受け入れられないことに、この時気が付いたのでした。

 ここから「岩手県庁」までは、バスで移動します。
県庁バス停から見える「岩手県公会堂」は、1927年に旧昭和天皇陛下のご成婚を記念して建設されたものです。
中央に塔をもつこの建物は、早稲田大学の建築学科主任教授であった佐藤功一による設計です。
県会議事堂や大ホールを備え、県民の社交場として利用されてきました。
外観は、彼の代表作のひとつである日比谷公会堂によく似た造りをしています。

 「岩手県公会堂」から「岩手県庁」、「盛岡地方裁判所」と、今来たバス通りを少し戻ってみましょう。
裁判所の敷地内には、「石割桜」があります。
巨大な花崗岩の割れ目から、桜が伸びているように見えます。
直径約1.35mの巨大な幹が、岩を砕いて育っています。
樹齢360年を越える桜の木は、花見のシーズンには鮮やかな桜色の花が咲く、盛岡の人気スポットです。

 ここで再び「岩手県公会堂」に、戻ります。
道の向こうには「盛岡城址」で、「盛岡城址公園」が広がります。
そして、その入り口に「桜山神社」があります。
1591年に南部信直は、浅野長政らの助言に従いこの地に城を築くことを決心します。
北上川と中津川の合流点に近く、城を築くには格好の場所だったのです。
そして1749年には、盛岡藩18代利視が初代藩主の信直を偲び、城内本丸東側に神殿を建立します。
これが「桜山神社」の始まりです。
御神霊を「淡路丸大明神」として奉ったのでした。

 せっかく城の北側まで来たのですから、ここで寄りたいところがあります。
それは盛岡を代表する「じゃじゃ麺」の店です。
この店「白龍」の初代主人である高階貫勝は、戦前に旧満州に移住していました。
終戦後に日本に帰って来た時に、満州時代に味わった「炸醤麺(ジャージアンミエン)」が忘れられずに、日本の食材を使った屋台を始めます。
注文を取ってからゆがかれた平打ちうどんの独特の麺の真ん中には、なにやら奇妙な茶色い塊が乗っています。
特製の肉味噌にキュウリとネギを添えて、完成です。
味噌が良い味を出しています。
麺を食べ終わったところ、店の人から「お腹がいけるのならばスープを作りましょうか」と声を掛けられます。
これまで食べていた器に卵を割り、肉味噌を加えて茹で汁で溶いたら、スープ「鶏蛋湯(チータンタン)」のでき上がりです。
身体が温まります。

 ここで再び「盛岡城址」を歩きます。
「盛岡歴史文化館」では、盛岡の歴史と文化が展示されています。
盛岡を代表する祭りである「チャグチャグ馬コ」は、等身大の馬の模型です。
足が太く力強い馬コです。
そしてこの地方のもうひとつの風物詩である「盛岡さんさ踊り」は、真夏に開催されます。
その他館内には、藩政時代から続く祭の山車も展示されています。

 「中津川」を越えたところにあるのは、「岩手銀行 赤レンガ館」です。
ずっと気になっていたレンガ造りの建物に、やってくることができました。
1911年に盛岡銀行の本店として営業したこの建物は、1936年には岩手殖産銀行(現在の岩手銀行)の本店に、そして1983年には岩手銀行の中ノ橋支店と替わっていきます。
東京駅の建築で有名な辰野金吾と、盛岡出身の葛西萬司が設計に携わっています。
辰野の作品らしく、全体がレンガで覆われており、彼が造ったもののなかでも東北地方に唯一残る建物です。
2012まではここで銀行としての営業が行われていましたが、いまでは保存修理を終えて一般公開されます。
中を見て回ると、1階は営業室で青森ヒバがふんだんに使われています。
2階には周りに回廊がめぐらされており、吹抜けになっている1階の様子を見渡すことができます。
その他にも役員室や金庫室を、見て回ることができます。

 「岩手銀行 赤レンガ館」の北側には、柱で周りを囲まれ花崗岩で覆われたギリシャ風の建物があります。
こちらは、「盛岡貯蓄銀行」(現在の岩手殖産銀行)です。
先ほどの盛岡銀行の建築にも加わった葛西萬司が率いる葛西建築事務所の設計です。

 「盛岡貯蓄銀行」の前の通りを、北上しましょう。
瓦屋根の店舗が続きます。
「ござ九 森九商店」は、かごやザル、竹細工などを扱う雑貨屋です。

 その先の交差点に見える奇妙な形をした建物は、「紺屋町番屋」です。
1891年に盛岡消防「よ組番屋」として建てられたもので、1913年に消防組第四部事務所として改築されました。
棟札によれば、石倉久太郎と山下熊太郎が大工を勤めたと記されています。
木造2階建の建物は、1階を元来消防器具の常置場として使い花崗岩の石畳が敷かれていましたが、今ではその一部を座敷としています。
そして街路に面する部分は、消防車の車庫となっています。
2階は畳敷の広間で、寄合の多い番屋の面影を残しています。
そこから回り階段で、屋根上の望楼に登ることができます。
洋小屋組寄棟屋根で、六角形の望楼を有する南京下見ペンキ塗のこの建物は、先ほど見てきた「岩手銀行 赤レンガ館」とともに盛岡を代表するものです。

 さてここで今歩いてきた道を戻り、今度は「岩手銀行 赤レンガ館」の南側に進みます。
100mも歩けば、そこには1910年に竣工した「旧第九十銀行」の建物があります。
盛岡出身の横浜勉の設計で、ロマネスク風の外観を呈しいます。
特に、開口部の石型アーチや建物隅部に突出したロケットが美しく可愛い建物です。
現在は「もりおか啄木・賢治青春館」として、明治から大正にかけて盛岡中学に学んだふたりの青春時代の軌跡を紹介しています。

 ここからは、さらに南に向かって進んでいきます。
雪道を滑らないようにおどおどと歩いて行ってたどり着いたのは、「旧石井県令私邸」です。
盛岡監獄を移転建築する際に出た煉瓦や囚人使役によって、1886年に造られたといわれる県令の住宅なのです。
レンガ組積造3階建の建物で、屋根裏部屋を備えています。
屋根には2個所、ドーマー窓のあるヨーロッパ民家風の箱型の建物です。
外壁につけられた胴蛇腹と軒蛇腹にあるレンガの帯状のフランス積といった手法は、旧盛岡監獄の壁と同じです。
一般の住宅の間に、ひっそりと建っています。

 ここから「中津川」に架かる「下の橋」を渡り、盛岡城の西の石垣を眺めながら、盛岡駅に向かうバス停に向かったのでした。
ホテルに戻り、歩き慣れない雪道で棒になった足を休めるのもつかの間、楽しみにしていた夕食を食べに再び街に繰り出します。
盛岡に来たからには、「もりおか冷麺」や「じゃじゃ麺」以外にも食べてみたいものがあります。
「わんこそば」で、1口大のそばですが食べ終わるとお椀にお代わりが注がれます。
ストップを宣言しない限り、お代わりの麺は次々と放り込まれます。
朝から麺を腹いっぱい食べ、昼も麺続きのこの日にまたしても麺ですが、ここは頑張って食べるしかありません。
最初は調子よく食べていたのですが、さすがに80杯を越えた辺りからちょっと苦しくなってきました。
なんとか100杯は越えたものの、この日は115杯でストップをかけてしまいました。
本当に麺ばかりの1日だったのです。

 食べ物ついでに、もうひとつ翌朝の朝食のお話です。
盛岡に有名なパン屋があります。
「福田パン」という、コッペパンの間に好みの具を挟んでくれるところです。
具の種類は数十種類あり、その品揃えの多いことで有名なのです。
2つの具を指定することができ、ここは定番の「あんバター」を注文します。
こうして4回連続で麺を食べることだけは、回避できたのでした。

 最後に夏に盛岡を訪れた時の映像を、少し載せておきます。
東北の夏祭りで、盛岡で行われるのが「さんさ踊り」です。
そのひとつの太鼓パレードの写真を掲載します。
東北の短い夏ですが、夏祭りだけは暑さが身に染みるのものです。

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