にっぽんの旅 東北 福島 会津若松

[旅の日記]

会津若松 

会津藩の城下町として盛えた会津若松が、今回の散策の舞台です。
JR只見線の七日町駅が、本日のスタート地点です。
 レトロな雰囲気の七日町駅をあとに、七日町通りを東へ歩きます。
毎月の七の日に市が立ったことから、今の地名が付いてきます。
藩政時代には、会津五街道のうち日光、越後、米沢の街道が通り、城下の西の玄関口として問屋や旅籠、料理屋が軒を連ねていました。
通りの両側には、当時のたたずまいが残っています。
そんななかで「渋川問屋」は、大正時代に造られた木造家屋や明治時代の座敷蔵を活かし、郷土料理を味わうことができます。
その先の「もめん絲」は、会津木綿を使った手作りの店です。
反物から切り売りまでもができます。

 木造の建物が多いなか、「レオ氏郷 南蛮館」は瓦屋根ながらも何かあかぬけした造りの建物です。
洋品店として使われていた大正時代の蔵が、資料館として使われています。
織田信長の娘婿でもある蒲生氏郷は、南蛮文化を好んだキリシタン大名で、レオの名前は洗礼名「レオ」から来ています。
建物の2階が、資料館になっています。

 「白木屋漆器店」は、この通りでは珍しい洋風の建物です。
しかし、中は日本古来の会津塗り、漆器の店なのです。

 「白木屋漆器店」より右に曲がって、これからは南に方向を変えます。
「会津壹番館」という名の喫茶店の2階は「野口英世青春館」です。
野口英世と言えば会津が生んだ偉大な医学者で、黄熱病や梅毒等の研究で知られています。
身を呈した熱心な研究で有名で、黄熱病の研究中に自身も罹患し51歳で死去してしまいます。
そしてここが野口英世が左手の手術を受けた会陽医院跡で、彼が過ごした青春時代の資料が展示されています。

 そのすぐ隣には、黒漆くいの蔵店舗があります。
「福西本店」で、会津漆器、会津もめん、民芸品などが、展示販売されています。

 「興徳寺」には、蒲生氏郷の墓があります。
お寺の裏側の駐車場脇に、ひっそりと建っています。
墓は「空風火水地」の五文字を刻した五輪塔で、京都大徳寺の本墓から分骨したものと伝えられます。
蒲生氏郷の子供時代は、織田信長のもと人質生活を送っていました。
ところが氏郷の利発さを信長が認め、信長の娘さある冬姫と結婚します。
秀吉の時代となった時に、奥州の押さえとして会津42万石の大名になります。
会津若松では七層の天守閣をもつ鶴ケ城の築城を行い、この地の英雄として今も祀られているのです。

 再び左折し、東へ向かって歩き始めます。
するとレトロな雰囲気をもつ「会津若松市役所」が見えてきます。
1937年の建物で、外壁は石造風に目地を切り、玄関入り口上部と3階の主要開口部は半円形で構成されています。
玄関上部には3本の円形の化粧柱があり、柱頭と柱礎にはギリシャ風にデザインされています。

 再び南に進路を変え、敦賀城目指して歩いて行きます。
と、ここでまた誘惑が入ります。
「宮泉醸造」で、酒蔵見学ができるのです。
思わず入ってしまいました。
お米を蒸して、麹をつくり、仕込と発酵をさせてから、最後の搾りまでを、見学しながら説明してくれます。
最後にはジュースで割った日本酒の利き酒や、甘酒を頂くことができます。
今回が初めての酒蔵のように見えるかもしれませんが、ここに歩いてくるまでの間にも何軒かの酒屋さんが並んでいました。

 ここでようやく「敦賀城公園」に辿り着きました。
ここに「若松城」通称「敦賀城」があります。
1384年に蘆名氏7代当主の蘆名直盛が小田垣の館または東黒川館という館を造ったのが、若松城のはじまりとされています。
15世紀半ばまでには黒川城とその城下が成立していたと推測されます。
1589年には蘆名氏と戦いを繰り返していた伊達政宗が、豊臣秀吉の制止を無視して蘆名義広を攻め、黒川城を手にします。
ところが、秀吉に臣従する伊達政宗、秀吉に会津を召し上げられてしまいます。
代わって黒川城に入ったのは蒲生氏郷で、1592年より大名に相応しい近世城郭に改造し、城下町を整備していくのです。
氏郷は町の名を黒川から若松へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行います。
1593年には望楼型7重の天守が竣工し、名前も「鶴ヶ城」に改められます。
その後城主は何回か代わりますが、1868年の戊辰戦争では徳川に味方する会津藩・庄内藩らは長州藩・薩摩藩に率いる新政府軍に応戦し、会津勢の立て篭もる若松城は1か月の間持ちこたえるものの、その後開城されていまいますた。
戦後、天守を含む多くの建造物の傷みは激しく、その後も放置されたまま破却を迎えている。
現在の天守は1965年に鉄筋コンクリート造により外観復興再建されたもので、内部は若松城天守閣郷土博物館として公開されています。
また2011年には、黒瓦だった天守の屋根瓦を明治時代に解体される以前の赤瓦葺に復元されています。
そして、城敷地内には茶室「麟閣」も再現されています。

 ここで食事を取ることにしましょう。
会津の名物と言えば、「ソースかつ丼」でしょうか。
以前食べたものは濃いソースで、丼自体がしょっぱかった覚えがありあまり良い思い出がなかったんですが、せっかく来たのですから再チャレンジです。
出て来たものは以前と見た目は同じですが、かつを口に頬張ると味が全然違います。
今回のものはあまいソースで、たっぷりかかっていてもしょっぱさはなく、かつに合っているのです。
悪いイメージをふっしょくし、新たに名物として納得ができたのでした。

 さてここからは、市内を循環する観光バスに乗ります。
バスは2種類あり、それぞれ30分おきに巡回しており、1日券を購入しておけば好きなところで乗り降りできるので便利です。
いづれも同じルートで、右回りが「あかべぇ」、左回りが「カイカラさん」です。
「会津武家屋敷」までの10分ぐらいを「カイカラさん」に揺られていきます。

 「会津武家屋敷」は、江戸時代の会津藩家老西郷頼母の屋敷を中心に、旧中畑陣屋や数奇屋風茶室、藩米精米所などの歴史的建造物が軒を連ねています。
また、敷地内には会津歴史資料館もあります。
頼母の養子の西郷四郎が、小説「姿三四郎」のモデルであったということは、この時初めて知ったのでした。
西郷四郎が、坂本竜馬を斬ったといわれる京都見廻組組頭の佐々木只三郎の墓などがあります。
ただし当時のものが残っているのではなく、幕末の戊辰戦争で会津城下は戦火にさらされ多くが消失してしまっています。
地元の有志により当時を忠実に再現させ、会津の歴史・文化・精神を後世に伝えるために造られたものだったのです。

 ここでふたたび「カイカラさん」のお世話になります。
次の訪問先は「飯盛山」、白虎隊が自刃した場所です。
江戸時代後期の戊辰戦争に際して新政府軍と幕府方の会津藩の間で発生した会津戦争にさかのぼります。
会津藩では、藩士子弟の少年たちで構成される白虎隊と呼ばれる部隊が結成され、会津の精神で徳川幕府を支持し新政府軍に激しく戦います。
多勢の新政府軍に対して、抗戦をするもののそのうち士中二番隊が戸ノ口原の戦いにおいて勝ち目がなく、撤退してしまいます。
飯盛山に逃れた彼らは、鶴ヶ城周辺の武家屋敷等が燃えているのを落城と錯覚し、もはや帰るところもないと自刃してしまうのです。
山頂には「白虎隊十九士の墓」の墓石が並び、彼らの早すぎる死を悼む香煙がたえません。

 山を下りる途中には「さざえ堂」があります。
さざえの殻を模した螺旋状の階段を備えるお堂で、上りと下りが交互に配置されており同じ道を通らず抜けられるというめずらしい造りになっています。
これだけを目当に来ても、価値のあるものです。

 その近くには、白虎隊が飯盛山に退散するときに通ったと言われる「戸ノ口堰洞穴」があります。
元々は戸ノ口堰洞穴猪苗代湖から会津地方へ水を引く為に掘られた堰で、会津藩士である佐藤豊助が中心となって造ったものです。
山の麓には「白虎隊記念館」もあり、戊辰戦争の惨劇の様子と当時の資料が展示されています。

 見どころの多い会津若松での1日でしたが、やはりここに来たからには郷土料理を食せずに帰るわけにはいきません。
干し貝柱のだしが決め手のすまし汁「こづゆ」、乾物のタラを甘辛く煮込んだ「棒タラ煮」、ニシンを漬けた「ニシンの山椒漬け」をはじめとして、山菜の和え物、蕎麦などこの地方の名物を味わいます。
特に「こづゆ」が関東以北の底の見えない濃い汁ではなくすまし汁であったことは、素材の味がよく出ていて感激したのでした。

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