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[旅の日記]

こみせの町 黒石 

 本日の訪問先は青森県の黒石です。
JR弘前駅から弘南鉄道弘南線で30分の終点が黒石です。
しかし今回は、ひとつ手前の境松駅に向かいます。

 弘南線は単線の2両編成の列車。
天井には扇風機が備わっていますが、その代りにエアコンがありません。
「いまどき」と言いたくなるような車両ですが、つり革には「東急百貨店」の文字があります。
おそらく以前に東急で使っていたものを、そのまま使い続けているのでしょう。

 電車はカタコトと田んぼ、畑の中を走ります。
津軽尾上駅を過ぎた辺りから、車窓にはリンゴの木がちらほら見えてきます。
この季節は青いリンゴがほんのり色付き始めたところで、早い木にはそろそろ実に袋が被されています。
秋には辺り一面が青森名産の真っ赤なリンゴの姿で塗りつぶされることでしょう。楽しみです。

 たんぼアート駅にはタワーが造られ、そこから周りを見渡すことができます。
何人かの人が上に登って覘いています。
見ている先は一面に広がる田んぼです。
田んぼが人を呼ぶための目玉になる時代なのですね。

 その先の無人の境松駅で、電車を降ります。
何がかあるという駅でもなく、ひらすら駅前の道を歩きます。
今では見かけなくなった火の見櫓も、立派に現役で働いています。
実はこの先にある、黒石名物の「つゆ焼きそば」発祥の店を目指しています。
10分ほど歩いたところに、その店はありました。
4〜5客のテーブルがあるだけの小さな店です。
何しろ焼きそばを間違って汁に入れてしまった失敗が、この「つゆ焼きそば」の起こりのようです。
ソース焼きそばが汁に入り、天かすとネギがトッピングされています。
そして肝心の味のほうですが、汁に漬けてもソースの味は思いのほかしょっぱく、これは後で喉が渇くのだろうなと直ぐに思ったのが正直なところです。
それが分かってのことか、おかずとしての一品の小鉢と漬物が付いてきます。

 面白いことに、この食堂の前には保食(うけもち)神社なるものがあります。
まさに食べ物屋としては絶好の場所ではないのでしょうか。

 腹も満たされたことなので、黒石方向へ進みましょう。
木造の壁をした年季の入った家が続きます。
この地方の家屋の造りの「こみせ」は、1階の張り出した屋根を支える柱に対して家の壁面は1段内側にあります。
柱は1間間隔で立っているものですから、軒下に廊下が走っているようです。
そんな中でひときわ大きな建物が「佐藤酒造」です。
1894年創業の木造2階建の切妻造りです。
中央には、特大の杉玉がぶら下がっています。

 その先には「横山文具店」があります。
2階の戸袋が特徴的で、昔は絵が描かれていたのかここだけ白っぽい壁でガラスははまっていた跡があります。

 ここから1筋北側の通りに移動します。
この辺りは弘南鉄道黒石駅の近くで、黒石駅に向かって33体の観音像が並んだ小路があります。

 先を急ぎましょう。
黒石一番の繁華街に入ります。
言われてみればこの辺りの道路には街灯が並び、焼き鳥屋、居酒屋などの飲食店が目につくようになります。
脇道に入るとスナックらしき店も、ちらほら目に入ります。
といっても100mほどの小さな繁華街です。
北国の平和な歓楽街なのです。

 道路右手に面白い消防署を見付けました。
木造の三角屋根をした「黒石第三消防部」です。
1階は木造の扉で、恐らく奥には消防車が格納されているのでしょう。
2階は一面が木枠のガラスで囲まれており、その上には塔がそびえ、てっぺんには火の見櫓が備わっています。
純和風の消防署が、ここには残っているのです。

 その先で交わる通りで「こみせ通り」です。
鎌倉幕府から派遣されていた地頭の工藤右衛門尉貞行が、黒石郷を支配していました。
その後黒石は、南部信光そして同じ南部の家臣浅瀬石城主千徳家の領有と移って行きます。
ところが同じ南部の一族でありながら、反旗を翻した大浦為信がこの地を支配することになります。
そして1656年には為信の孫 津軽十郎佐衛門信英が、津軽藩主信政の後見人である黒石に五千石で分地しました。
信英は黒石城を中心に町造りをはじめ、それが今日の黒石の市街地なのです。

 「こみせ通り」との角にあるのが「松の湯交流館」です。
ここは銭湯を改造して休憩所としたものです。
もと銭湯だっただけあって、室内には番台や浴槽がそのまま残されています。

 「こみせ通り」には、「菊乃井」「玉垂」の2軒の造り酒屋があります。
酒造りには欠かせない良質な水と純良な米があり、黒石はこれらに恵まれていました。
「玉垂」を扱う「中村酒造」では、ここでも先ほどの「佐藤酒造」と変わらぬ大きな杉玉があります。
新酒ができたことを示す杉玉が吊るされているのです。

 一方、向かいの「高橋家」は、江戸時代中期に建築された商家の住宅です。
黒石藩御用達の「理右衛門」を名乗る商家で、米を扱ったことから屋号は「米屋」と呼びます。
「米屋」では米だけではなく、味噌や塩、油、薬などを製造、販売していたといわれています。
通りには「こみせ通り」と言うだけあって、家の周りには「こみせ」が張り巡らされています。

 本日は台風が近づいているということで、朝から天気がななめです。
ちょうど歩いているときに、小雨が降りだしてきました。
そんな時もあわてることはありません。「こみせ」が威力を発揮します。
「こみせ」を歩くことで濡れずに移動することができたのでした。

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