[旅の日記]
太宰のふるさと 五所川原 
青森市は訪れても、足を延ばすことがなかった場所があります。
津軽半島の中心に位置する五所川原です。
今回はこの五所川原を散策します。
津軽鉄道の津軽五所川原駅は、JRの五所川原駅に隣接した小さな駅です。
JRとは改札こそ別になっているものの、中に入るとJRのホームに出ます。
1〜2番線がJRなのに対し、3番線が津軽鉄道のホームになっています。
ホームには列車が停まっていました。
冬は車内にストーブを備え、暖を取ったりするめを焼いたりするストーブ列車が有名です。
夏の今の時期は津軽金山焼の風鈴を吊るした風鈴列車や、鈴虫のかごから鳴き声が聞こえてくる鈴虫列車、太宰治の作品が展示された太宰列車など、志向が凝らされています。
反対のホームには、かつて使われていた車両も停車しています。

津軽鉄道のルーツは、五所川原駅から南方の川部駅に伸びる陸奥鉄道にあります。
これが国有化され国鉄五能線となった時、今度は五所川原駅から北の中里駅まで延伸する計画が持ち上がり、そのための津軽鉄道が設立されます。
1930年には五所川原・中里間が開通したものの、昭和金融恐慌の影響もあり苦しい立ち上げとなりました。
そこで近隣の乗合自動車会社の路線買収に乗り出し、金融不況がかえって路線を広げていく結果となりました。
ここから30分弱の鉄道の旅です。
レールのつなぎ目で発生するガタンゴトンの心地よいリズムに乗って、列車に揺られて行きます。
田舎ののどかさを満喫した、あせらずゆったりとした時間です。
そして着いたのが金木駅です。
ここにやってきたのには、訳があります。
決して文学に詳しいわけではありませんが、金木出身の太宰治が気になっていたからです。
まずは彼の過ごした「太宰治記念館 斜陽館」を訪れてみます。
太宰治(本名 津島修治)は、1909年に津島源右衛門とたねの六男としてこの地で生まれました。
父 津島源右衛門は木造村の豪農松木家からの婿養子で、衆議院議員、貴族院議員などを務めた地元の名士です。
県下有数の大地主であることが、「斜陽館」の立派さからも判ります。
1923年に源右衛門は肺癌で死去しますが、この年太宰は青森県立青森中学校に入学し、実家を離れて下宿生活を送ることになります。
成績優秀で級長を務め、4年修了時の成績も5本の指に入るほどでした。
芥川龍之介、志賀直哉、菊池寛の書物を愛読し、自身も同人誌を発行するほどの文学少年でした。
1930年には、フランス文学に憧れて東京帝国大学文学部仏文学科に入学するため上京します。
しかし講義にはついていけず、小説家になるために井伏鱒二に弟子入りをします。
太宰は小山初代を上京させ、結婚することを試みます。
津島家は芸者との結婚に強く反対しますが、太宰は初代と結婚してしまいます。
このことがf原因で、太宰は津島家から分家除籍となりました。
さらには腹膜炎の手術で使った鎮痛剤パビナールの注射から、パビナール依存症になってしまします。
乱れた私生活が続いた太宰でしたが、同人雑誌「日本浪曼派」に発表した「道化の華」が佐藤春夫の目に留まります。
しかし第1回芥川賞では落選し、選考委員の佐藤春夫や川端康成からは作品だけでなく私生活まで酷評され、太宰は自身暗鬼に陥ります。
その後も芥川賞には選ばれず1937年には自殺未遂も起こし、ついに初代と離別してしまいます。
その後、井伏鱒二の紹介もあり石原美知子と見合いをして、これまでの乱れた生活を反省し家庭を守ることを決意した「結婚誓約書」を作成します。
1939年に結婚式を挙げ、一旦は甲府に移り住みます。
そして東京府北多摩郡三鷹村に転居したときには精神的にも安定し、「富嶽百景」「走れメロス」などの優れた短編を発表しました。
太平洋戦争の1945年には東京大空襲に遭い、甲府にある美知子の実家に疎開しますが、今度は甲府空襲に会い石原家は全焼してしまいます。
そこで太宰は津軽の津島家へ疎開し、そこで終戦を迎えます。
長編小説「斜陽」、自身の過去の乱れた生活から生まれた「人間失格」など、優れた作品を数多く生み出しました。
しかしその後も女性関係は複雑で、1948年には美容師の山崎富栄と入水自殺をし、この世を去りました。
満38歳のことでした。
名家に生まれ才能に恵まれた太宰でしたが、それを生かしきれないもどかしさを感じるのでした。

「斜陽館」の隣には「旧西沢家住宅主屋」が残されています。
鉄板瓦棒葺屋根の建物で、入母屋造等を複雑に組み合わせた造りになっています。
18畳の座敷と15畳の和室の部屋が配置されています。
その東には1階に8畳間が2部屋、2階には12畳の半座敷があり、「斜陽館」とともに住むには十分な広さを有しています。
「斜陽館」の近くには、「津軽三味線会館」があります。
中では津軽三味線の展示と、生演奏が繰り広げられています。
張りがあり暖かい三味線の音色に、聞き入ったのでした。
ここで昼食をとります。
この地方は馬を食す文化があります。
馬肉がふんだんに乗った馬味噌ラーメン、馬の筋肉をミンチにした激馬カレーなど、牛肉や豚肉に較べると癖はあるがそれなりに美味しいものばかりです。
食後にはリンゴソフトのデザートで、郷土の食材を味わったのでした。
じつはこの時、後で食べるためにと売店で赤飯も購入しました。
普段食べる赤飯とは違い、この地方では甘い赤飯を食べます。
弁当のおかずに添えられる金時豆をご飯に入れたという表現がぴったりの、砂糖いっぱいの赤飯だったのです。
近くには「雲祥寺」と「妙乗寺」が並んでいます。
1596年に建立された「雲祥寺」は小説「思ひ出」に登場する寺院で、太宰治が乳母のたけによく連れていかれた場所です。
地獄絵の掛け軸があり、そこには鬼が人の一生の悪事を裁き罰を与えている場面が描かれています。
一方の「妙乗寺」は、1714年に創建の日蓮宗の寺院です。
それではここから太宰治のもうひとつの住処であるところに向かいします。
太宰治疎開の家の「旧津島家新座敷」です。
太宰の兄の文治夫婦の新居として1922年に建てられた津島家の離れです。
太宰は太平洋戦争で、東京大空襲、甲府空襲から逃れ疎開したのがここです。
「パンドラの匣」「苦悩の年鑑」などの数々の作品が生れたのも、この「旧津島家新座敷」だったのです。
ここからは再び五所川原駅に戻ります。
五所川原のねぶたが保存されていると聞いてやって来た「立佞武多の館」です。
ところが改修工事中で閉館、立ち寄ることはできませんでした。
その近くの「鶴屋稲荷神社」でお参りしていきます。
間が良いことに、今年の祭りの準備で新たなねぶたが小屋に保管されています。
扉の隙間から、そっと覗かしてもらうことにします。
2体のねぶたが、出番がまだかと待っているところでした。
そういえば、演歌歌手の吉幾三も五所川原出身です。
近くに「吉幾三コレクションミュージアム」があったことは、この旅から帰った後に気が付いたのでした。
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