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[旅の日記]

新潟(城山神社・新津記念館) 

 本日は新潟の街を、古町からスタートです。
古町モールを南下していきます。
通りの両側に漫画「ドカベン」の主人公山田太郎や岩鬼正美のブロンズ像が並んでいます。
ここは、新潟出身の水島新司の作品が並ぶ「水島新司マンガキャラクターストリート」です。
ちなみに、「野球狂の詩」や「あぶさん」も彼の作品です。

 商店街の最終地点に、「新潟県政記念館」があります。
1883年に「新潟県会議事堂」として建設され、1932年の新県庁舎内への議場移設までの間、利用されてきました。
左右対称の木造2階建ての洋風建築で、当時としては画期的なものでした。
その後は郷土博物館、県庁分館などに使われてきましたが、明治の府県会開設期における唯一の現存する議事堂として1969年に保存が決まりました。
中には議場を始め、知事室や議長室など14の部屋があります。

 「新潟県政記念館」の隣には、「白山神社」があります。
平安時代中期の創建とされているが、詳細は不明です。
加賀の霊峰白山頂上に祀られている女神 菊理媛大神(白山大神)を勧請してここに祀られています。
現在の本殿は、1647年に建てられたものです。
白山大神は女の神さまで、子孫繁栄、家内安全にご利益のある神社です。
また水を司る神様でもあり、水の持つ心身を清める神秘的な力により、魔除け、厄除けに対する参拝者も多くいます。
境内には、祭りでもないのに新潟名物「ポッポ焼き」ののぼりを挙げた屋台が出ています。

 ここから、日本海側を北上しましょう。
「新津記念館」という、洋風の建物があります。
新潟出身の石油王 新津恒吉が、石油で得た利益を世間に還元しようと1938年に建てた外国人向け迎賓館です。
1階は木をふんだんに使ったシャコピアン様式の「イギリスの間」、2階には庭園を見下ろすことのできるロココ調で統一された「フランスの間」と外人にも日本の良さを体験していただくための「日本間」、そして3階には「ドイツの間」があり、それぞれに表情の異なる内装が施されています。
最初にビデオを見て知識を得たうえで、部屋を見て回ります。
いずれの部屋も、贅を尽くした豪華なものです。
当時の新津恒吉の繁栄の様子が判ります。
外国人をもてなすための迎賓館として造られたこの建物ですが、戦後は皮肉にも進駐軍の拠点として利用されてしまいます。
紆余曲折を経て、今日まで残っている貴重な建物です。

 さらに北に歩いていきましょう。
日本海を望む「日本海タワー」を横目に、海岸線沿いに進みます。
中国大使館の斜め向かいにあるのが、「砂丘館」です。
ここは1933年建設の日本銀行新潟支店役宅のお屋敷を、「砂丘館」として公開しているものです。
建物や庭園は無料で見学でき、蔵のギャラリーや和室は企画展やコンサートなどに利用されています。
部屋の貸出しも行われており、サークル活動や市民主催の展覧会会場としても利用できます。

 海側に進んだところには、歌人 會津八一の「會津八一記念館」があります。
八一の数々の作品が展示され、彼の生涯を顧みることができます。

 「砂丘館」の先には、作家 坂口安吾の遺品・資料を展示した「安吾風の館」があります。
この建物は元市長公舎で、政令指定都市・中核市の中で現存する最古のものです。
市長公舎の和室部分と、のちに整備された現代庭園を公開しています。

 この辺りから、進路を東にとります。
「新潟大神宮」は、この地方の守り神です。
「旧斎藤家別邸」は、1918年に齋藤家の四代齋藤喜十郎が、別荘として建設したものです。
砂丘地形を利用した回遊式の庭園と近代和風建築の秀作といわれ、港町・商都新潟の繁栄ぶりを物語る貴重な建物です。
戦後この邸宅も進駐軍による接収される運命をたどり、1953年には加賀田家に所有が移ります。
そして解体の危機を市民の保存運動に支えられながら、新潟の宝として今日まで残されています。

 その先には、「北方文化博物館新潟分室」があります。
1人の百姓が、百姓の傍ら商売に手を染め、事業を拡大していく物語です。
初代文吉は20歳で約13,000平米の畑を与えられます。
六畳二間と二坪の台所がついた土間のある家で暮らしていました。
間もなく文吉は、紺屋の娘きよを嫁とし、百姓の傍らきよの実家の藍の商売を営むようになります。
若い夫婦はお金が貯まると畑を買い足し、商売も繁盛するよってきます。
子の安次郎は35歳で二代目文吉の名を継ぎ、藍の他にも雑穀を扱い、さらには質屋、倉庫業など次第に商売を拡大し、ついには百姓を辞め「いはの家」という屋号を名のるようになります。
やがて小浜の御用達となり、1837年には名字帯刀を許され、「伊藤文吉」の名を名のるようになります。
三代文吉は伊藤家の土台を築きあげ、歴代の伊藤家はいずれも成功し続けます。
五代文吉は、幕藩体制の崩壊から天朝の御一新への移り変わりを見届け、豪商の城を築こうと所有地の拡大を決意します。
そして約18,000平米の土地に8年の歳月を費やして、1889年に広大な屋敷を造ります。
伊藤家は県下一の大地主としての日々が続きますが、やがて1931年に満州事変が勃発し、その後の太平洋戦争へと時代は移って行きます。
戦後、七代文吉は伊藤の館を博物館にする決意を固めます。
こうして生まれたのが、今ある「北方文化博物館」なのです。

 「北方文化博物館新潟分室」の先のピンク色をした洋館は、「金井写真館本館」です。
金井弥一が1888年に創業した写真館です。
中を見学することはできませんが、派手で目立つ建物です。

 さて、「NEXT21」までやってきました。
この先が尖っている高層ビルは、市内のどこにいても見えるため、市街地の摩天楼的存在になっています。
内に入ってみると吹き抜け部分を、螺旋状にエスカレータが登ってます。

 ここからは、駅方向に少し歩きます。
「萬代橋」は、新潟駅と古町を結ぶ信濃川に主要道路です。
側面に御影石を施すアーチ状の形状は、美しく新潟の顔になっています。
1886年に造られた初代萬代橋は、1908年の古町通八番町の芸妓屋を火元とする新潟大火によって、木製のこの橋はあっけなく延焼し、焼け落ちてしまいます。
1909年に造られた2代目ですが、その後の交通量に耐えられず、1929年に今の「萬代橋」に架け替えることに至ったのです。
実は、中央部に路面電車の軌道を通す併用軌道の橋梁として設計されましたが、実現に至っていません。
その代り橋の丈夫さは、新潟地震でもびくともせず、速やかな復興作業の後押しに役立ったのでした。

 橋を渡り切った万代シティに、「レインボータワー」は建っています。
上から下まで同じ断面積のニョロッとした塔は、虹色の装飾が施されています。
先ほどの「NEXT21」に次いで、市内3番目の高さを誇る展望台です。

 それでは、この当たりで食事にしましょう。
新潟に来て食べたかったもののひとつに「へきそば」があります。
つなぎに海藻の布海苔を使った蕎麦で、片木(へぎ)といわれる器に盛り付けたものです。
片木とは剥ぎ板で作った四角い器のことで、通常3〜4人前を一度に入れて盛り付けます。
そばは一口程度に小さく丸めて、片木の上に敷き詰められています。
布海苔のそばは粘り気があり、流し込むというよりはじっくり味わって食べるという表現が正しいかもしれません。
美味しく食べさせてもらいました。

 名所旧跡を見て回り、名物のそばで腹も膨れて、新潟の街を満喫した1日でした。

     
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