にっぽんの旅 信越 新潟 相川

[旅の日記]

相川と佐渡金山 

 本日は、佐渡の相川を散策です。
佐渡といえば、その昔金の産地で有名です。
マルコポーロが「黄金の国ニッポン」と言ったように、日本は金で満ち溢れていました。
そんな中でも国内最大の産出量を誇っていたのが、相川なのです。

 新潟交通の相川停留所から5分も歩けば、「金毘羅神社」があります。
古びてクモの巣が張った神社ですが、香川県琴平に祀られたものを、北前船の就航や四国参りの習俗などと共に伝播したもので、航海の安全を守る神として崇拝を集めるようになります。 この神社、1675年に顧主となった五郎左衛門が、金山が衰えたときにこの神社に願をかけたところ、立派な金脈が発見されます。
そこで社殿を改築して、この辺りは五郎左衛門町と呼ばれるようになったのです。

 「金毘羅神社」の前の路地を進みます。
民家が立ち並んでいるのですが、佐渡に来て気になることがあります。
ほとんどが木壁の家で、コンクリートや石膏ボードを使った家など、探す方が苦労するくらいです。
木材が豊富なのか、風対策なのか、とにかく木を重ね合わせ建てに柱を渡した家ばかりです。
風情があり、木の温もりを感じます。

 それでは一筋海側を進み、相川一の「天領通り商店街」を歩きます。
決して派手さはないものの、小奇麗な店が並びます。
相川一の繁華街で、飲み屋もあります。
といっても、小さな商店街ですけどね。

 商店街の終点から「塩竈神社」までは、さほど時間はかかりません。
「塩竈神社」はもともと塩焼きの神でしたが、製塩業の専売制に伴い今日では安産の神となっています。
当初は相川塩屋町にあった神社ですが、近くに牢屋が造られたことからこの地に移ってきたのです。
出羽米沢藩初代藩主である上杉景勝の家臣で、佐渡代官としてこの地を治めてきた河村彦左衛門の供養塔が、「塩竈神社」に納められています。

 再び「天領通り商店街」との分岐点まで戻り、この先の「羽田商店街」を進みます。
先ほどの「天領通り商店街」と違いアーケードがあるわけでもなく、昔ながらの街の香りが漂っています。
ほどなく歩くと、右手に「長坂」と呼ばれる長い上りの石段が現れます。

 「長坂」の登り口に、木の壁でありながら洋館の形をした建物があります。
ここは「旧税務署跡」です。
1889年に新潟県収税部相川出張所として設けられたもので、現存する建物は1931年に建て直されたものです。
木を横方向に組んでいるのが、特徴的です。

 「旧税務署跡」とは道を挟んで向かい側に、「阿弥陀堂」という小さなお堂があります。
鉱山時代にこの地には牢屋刑場があり、処刑者の断首場だったところです。
明治時代になって廃止されますが、無縁供養塔として冥福を祈るようになったのです。
ちょうど「長坂」とは直角に横に延びる「西坂」との分岐点にあたり、通行人が手を合わせた「合掌橋」もあります。

 その長い「長坂」を登りきると、その上には「時鐘」があります。
1713年に佐渡産出の銅で造られた鐘が、鐘桜の上に設置されています。
18世紀からおよそ200年に渡って、相川の街に時刻を告げてきました。
今建っているのは1860年に改築されたものです。

 「時鐘」からは、赤煉瓦の塀が続きます。
そこは「佐渡版画村美術館」で、風格のある破風造りの建物があります。
元は旧相川裁判所で、佐渡の版画家の故高橋信一の作品が集められています。
それまでの裁判事務は奉行所内で行われていましたが、1877年の新潟地方裁判所第5支所の設置に伴い、佐渡ではじめての司法官署として民事・刑事の両事務を取り扱うことになりました。
しかし、1969年には業務全般が旧佐和田町に移転されることになり、相川裁判所での役目は幕を閉じたのです。

 美術館の斜め向かいは、「佐渡奉行所」です。
関ヶ原の戦いで佐渡が上杉氏から幕府の支配下となった1601年に、「佐渡奉行所」は設置されます。
そのころ佐渡金山、銀山の開山に伴い、佐渡は潤っていきます。
幕府はこの地を直轄の天領とし、相川に奉行所が置きます。
島内の民政を管轄する町奉行と、佐渡金山をはじめとする金銀山の経営を管轄する山奉行がありました。
そしてそれに加えて、ロシアからの艦船の監視も大切な業務のひとつでした。
1603年には大久保長安が赴任し、その後勘定奉行が兼任する時期もありましたが、1712年からは定員2名体制で業務が進められてきました。
幾度のか大火でそのたびに建て直してきましたが、現在の建物は2001年に復元されたものです。

 「佐渡奉行所」からは、バス通りを下って行きます。
眼下に開けた場所が見えますので、そこに行ってみましょう。
そこは「北沢浮選鉱場跡」で、斜面を利用した壮大な建物の跡地です。
所々に壁の痕跡が残っており、その大きさが想像できます。
ここで鉱石を粉砕し、水銀を用いて金を回収していました。
そしてその奥には、シックナーと呼ばれる製材及雑作業場跡があります。
50mもある円形の建物で、泥状の金銀を含んだ鉱石はこの装置で水分を分離する工程を経た後、対岸の浮遊選鉱場へ送られました。
レンガ造りの発電所跡では、それらを写真交じりで説明しています。
また「北沢浮選鉱場跡」の入り口付近には「相川郷土博物館」もあり、これらの詳しい資料が展示されています。

 さて、ここからはバスに乗って「佐渡金山」を目指します。
いきなり細い道に入り込み、坂道を駆け登っていきます。
トロッコの線路跡でしょうか、途中に入り口を柵で閉ざされたトンネルがいくつもあります。
数kmのバスの移動もあっという間で、「佐渡金山」の入り口までたどり着いたのです。

 でもそのまま金山に入ったのではただの観光客、ここはさらに先の人気のいない場所まで歩きます。
「道遊の割戸」と呼ばれる採掘跡の山の割れ目です。
普段写真で見るのとは反対側の、実際に掘り進んで地肌が露わになっている方向から眺めます。
道の脇には大きな岩が転がっていて、かろうじて車道との柵で止まっている状態です。

 さらに先に進みましょう。
1875年にドイツ人アドルフ・レーによって造られた日本初の垂直坑道である「大立竪坑」があります。
東西約3km、南北約600mに分布する佐渡金山の鉱脈群のほぼ中央に位置し、352mの深さを有します。
当初は馬力捲揚でしたが、やがて蒸気機関を使用するようになります。
現在の鉄製やぐらは、1938年の日華事変に伴う金の大増産期に建設されたものです。

 さていよいよ金山の坑道に入って行きましょう。
坑道の時期によって2つのコースがあって、今回は戸時代の坑道である「宗太夫坑」に入ってみます。
岩のむき出た内部は階段状にくねくねしており、そこからさらに支流が延びています。
日本一の産出量を誇った「佐渡金山」は、場所によっては這ってしか行けない穴蔵の中で、過酷な採掘作業に就いていました。
螺旋に仕切った竹筒を回して低いところから高いところに坑内の水をくみ上げる様子が、人形で表されています。
過酷な労働の中、20歳〜30歳が坑夫の平均寿命だったということです。

 坑道の出口には、金採掘から精製の様子を示す資料館になっています。
そこで見つけました、小判に混じって金の延べ棒を。
キラキラ輝く延べ棒は、重くてそう簡単に持つことすらできません。
もちろん腕しか入らない展示用の箱の中で、監視カメラの回る中で持ち上げての話ですが。

 楽しみにしていた金山も見終えて、再び相川の街に戻ってきました。
夕方ともなれば、相川のバスターミナルと言えども人影がまばらです。
早速今晩の宿に向かうことにします。
本日の宿泊は、相川から10分程度の「鹿伏温泉」です。
日本海に沈む夕日を見ながらゆっくりと温泉につかり、佐渡の海の幸をたらふく食べて、一夜は過ぎて行ったのでした。

   
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