にっぽんの旅 信越 長野 岡谷

[旅の日記]

諏訪湖の畔 蚕糸で栄えた岡谷 

 岡谷に着いたのは、真夜中です。
JR特急「あずさ」で、日が変わる直前にたどり着きました。
締め出されないように、その日は急いで宿に入ります。

 翌朝目を覚まし、ホテルの最上階で朝食を取ります。
トーストとハムエッグ、ごく普通のメニューですが、ふっくらしたパンには朝から満足です。
そして窓の外には、岡谷の街並みと諏訪湖が広がっています。
今日は、信州の岡谷を散策してみます。

 歩き出して最初に眼に入ってきた大きな建物は、「旧岡谷市役所庁舎」です。
製糸業で栄えてきた平野村(いまの岡谷)ですが、昭和の時代に入って起こった金融恐慌、そして続いて起こる世界大恐慌により、製紙工場の倒産が相次ぎます。
村政の行き詰まりを打開するために、製糸業一本の産業構造から多角的工業ができる都市への転換を目指して、市制の施行を熱望します。
1935年には平野村から岡谷市に変わり、岡谷市政が本格的に始動します。
全国でも有数のカクキ尾澤製糸を経営しており合併して片倉製糸となった尾澤福太郎は、新しい市庁舎の必要性を感じます。
福太郎は私財を投じて、市庁舎を建築することをを申し出ます。
こうして鉄筋コンクリート2階建ての近代的な市庁舎が完成しました。
そしてこの建物は、1987年まで使われていました。
歩いているとその先には「賀茂神社」もあり、古い街並みが残る場所です。

 「旧岡谷市役所庁舎」から東へ進み、横河川を交差する辺りに「丸中宮坂製糸所繭倉庫」があります。
1928年創業の「丸中宮坂製糸所」は、これから訪れる「岡谷蚕糸博物館」内で操業している宮坂製糸所が、いまも使っている繭倉庫です。
蔵の壁には、円の中央に「中」の文字が描かれています。
そして横河川沿いには、「宗平寺公園」が広がっています。
ここからは左回りに西に進路を変えます。

 「宗平寺公園」から5分ほど歩いたところに、「小井川だるま堂」があります。
現在の小井川区にあった宗平寺が兵火で焼かれたため、1667年に「金光山徳蔵院」と称する寺を建立します。
「徳蔵院」の住職は福や徳が授かるように福聚海無量の教えを取り入れた福だるまを造ります。
2月の祭りの日には、地元の人々で大変賑わっていました。
ところが明治に入り仏閣廃止によって、「徳蔵院」も廃寺となってしまいます。
廃寺となった後も「だるま尊」は本尊として祭られ続け、ついに1952年に80年ぶりに「岡谷だるま祭り」が復活したのです。
そして「だるま尊」を安置するためにこの地が選ばれ、「小井川だるま堂」が1955年に建立されたのでした。

 その先を歩いていると、「旧山上宮坂製糸所」の事務所と工場跡が残っている場所があります。
明治時代の製糸工場は中小の工場で営まれていたため、繭の仕入れや生糸の出荷には複数の工場が結社を組み、共同で行っていました。
1874年にざぐり製糸として創業して製糸業として発展をしてきた「旧山上宮坂製糸所」も、そんな結社のひとつです。
最盛期には、繭倉6棟、工場の他にも、従業員寄宿舎や講堂、浴場と病棟などが敷地内に立ち並び、300人を超える従業員が働いていました。
木造2階建寄棟造の事務所は、モルタル塗りの外観で近代的な造りをしています。
その奥には住居としていまも利用されている居宅があります。
明治26年築の大きな建物で、菱型をした屋根の飾りが特徴的です。

 さらに先に進みましょう。
入口の壁にはのこぎり型の屋根を模った「岡谷蚕糸博物館」があります。
「旧蚕糸試験場岡谷製糸試験所」のあった場所に、1951年に建てられたものです。
製糸業で栄えた岡谷で実際に使われていた繰糸機が展示されています。
特に日本製糸業の発展の原動力となった諏訪式繰糸機も飾られており、併設する「宮坂製糸所」ではいまでも稼働して糸を紡いでいます。
かつての岡谷の製糸業には、冬場になると農村から工女が出稼ぎで集まってきます。
女工哀史で有名な深く雪の積もる野麦峠を越えて来る様は、映画「ああ、野麦峠」でも世間に伝えられました。
しかし実際はもっと楽しい工場生活であったことが、かつて女工としてこの地で働いた年寄りから語り継がれる活動が起こっています。
博物館では、蚕が造った繭から生糸ができるまでの説明と展示が行われています。

 また館内にある「まゆちゃん工房」では、繭を湯に浮かべ索緒ぼうきで繭の表面から糸口を引き出していく手仕事の実演が行われています。
複数の繭から延びる糸を束ねて、1本の糸に巻き上げていきます。
これが熟練を要する手仕事で、繭の外側と中側とでは糸の太さが微妙に異なるために、手の感覚で糸の本数を調整して均一の太さを保っていく必要があります。
まさに職人のなせる業です。
できあがった生糸は、つやがあり表面が光り輝いています。
これを織れば高級なシルクになり、かつての外貨獲得の源となってきたのです。

 再び「旧岡谷市役所庁舎」に戻ってきました。
ここからは、かつて工女で賑わった商店街を貫いていきます。
いまではその面影はほとんどありませんが、商店や劇場が並ぶ繁華街だったところです。
通りを脇に逸れると、古い木造の建物が今も残っています。
通りにあるパチンコ屋は散髪屋のような地味な入口をもち、その控えめなところが実に岡谷らしいものです。

 「居森弥五郎殿社」の小さな鳥居を右手に見ながら、坂を登った丘の上に「丸山タンク」があります。
煉瓦を積んで造られた円形のタンク跡が、残されています。
横に流れる天竜川の水をポンプでくみ上げ、生糸製造のための水を確保していたところです。
高品質の生糸を生産するためには良質な水が必要で、その水をいかに確保するのかが製糸業発展のための生命線でした。
明治中期以降、製糸工場の規模が飛躍的に拡大すると、水不足が深刻化してきました。
そこで製糸用水の供給を目的に「丸山製糸水道組合」が結成され、ここ丸山に外周約38mの貯水タンクを造り塚間川以西の製糸業地帯へ潤沢な給水を開始しました。
製糸場3,530釜への給水能力をもち、伸び続ける製糸工場への需用に対応したのです。

 「旧山一林組製糸事務所」は、1921年に建築された洋風の事務所棟です。
「旧山一林組製糸」は1879年創業の製糸工場で、9工場で3,966釜という釜数を誇る大工場でした。
その後、「林組製糸」「ミハト製糸」「信栄工業」として精密業に変貌を遂げたのですが、1972年には閉業してしまいました
どこの製糸業でも勃発した製糸工女の争議に「旧山一林組製糸」も直面し、特に1927年に起こった「山一争議」を抜きには語ることができません。
戦前の製糸工場争議としては国内最大級で、争議は19日間にも及んだものです。
この建物は現在も絹工房として、活用されています。

 さらに西へ歩いて行きます。
「神渡蔵元」の酒蔵を過ぎたところに、「金上繭倉庫」が見えてきます。
元は「旧サスダイ中村甫助製糸所」の繭倉であったところを卸業を行っていた「金上」が譲り受けたもので、岡谷に残る数少ない繭倉庫のひとつです。
購入した繭は、繰糸までの間の一定時間を貯蔵する必要があります。
かつては土蔵や居宅の2階に繭を保管するのが通例でしたが、カビが生えたりするため管理が大変でした。
さらには火災による大損害を被ったことから、繭専門の倉庫を建築する動きが高まり、そうして造られたのがこの繭蔵です。
3階建ての白漆喰塗りの土蔵造りの建物は、岡谷の象徴になっています。

 近くには「照光寺」があります。
そしてその境内には、蚕糸業の発展を祈願するために建てられた「蚕霊供養塔」があります。
村民や工女から寄付を募り建てたもので、犠牲になった蚕の霊を慰めています。

 その先には、「岡谷一五社神社」があります。
「建御名方命(たけみなかた)」「八坂刀賣命(やさかとめ)」とその御子13神が祀られています。
拝殿の左右には、御柱を思わせるような皮を剥いだ丸太が立てられています。

 中央高速の高架が頭のはるか上を通るところに、「旧林家住宅」があります。
「一山力林製糸所」の初代を務めた林国蔵の住宅です。
糸商人であった父林倉太郎の後を継いで、富岡製糸場を参考にして天竜川沿いに「天竜製糸場」を造り、20人規模の製糸業を興します。
1879年には片倉兼太郎、尾澤金左衛門とともに「開明社」を組織し、共同揚返場を設置します。
製糸燃料の不足が問題となると、諏横川御料林の払い下げや、西条炭鉱や常磐炭鉱の採掘を手掛ける「訪薪炭株式会社」を創設する実業家でもありました。
敷地には主屋の他に、繭倉庫であった蔵などが残されています。
離れの2階の和室にある壁紙の金唐革紙は有名で、価値が高いものです。

 ここから10分くらい歩いたところには、「旧片倉組事務所」があります。
1910年に建築された日本最大の製糸会社「片倉組」の事務所です。
1873年に片倉市助が自宅の前庭の小屋を使い、10人繰の座繰製糸を始めます。
さらに長男の初代片倉兼太郎は、1878年に「器械製糸垣外製糸場」を設立します。
その後も拡大を続け「松本製糸場」などを開設し、「片倉組」を組織します。
1920年には「片倉製糸紡績」となり、18箇所の工場、釜数11,930を数える日本最大の製糸工場へのぼりつめます。
現在は「片倉工業」として、この地で操業しています。

 さてここからは岡谷駅に向かいますが、天竜川の川辺を歩いて行きましょう。
途中、「御倉小路舟付場跡」の碑が建っていることを確認しながら、川下に歩いて行きます。
吊り橋のような欄干をもつ「天竜橋」、赤い鉄筋の「釜口橋」を通り過ぎて、天竜川が諏訪湖に注ぎ込む「釜口水門」に出ます。
ここからは、諏訪湖を手に取るように見ることができます。
対岸には霧ヶ峰の山々が広がり、山の高いところにはまだまだ雪が残っています。
これまで街を歩き回っていたのですが、ここでは湖を眺めてのんびりした時間を過ごしたのでした。

 春を迎えるこの時期でも、夜は氷点下の気温になる岡谷です。
現在は精密工場が立ち並ぶ岡谷ですが、蚕糸業で栄えた岡谷を訪ねて町を巡った1日でした。

 
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