にっぽんの旅 信越 長野 長野

[旅の日記]

長野 善光寺詣で 

 長野の善光寺を訪れてみます。
長野電鉄の権堂駅を降り、参道である大門南の交差点まで権堂アーケード通りを進みます。
右手には、秋葉神社を眺めることができます。
秋葉神社は、文政ころ遠江の秋葉山から往生院境内に移し安置されていましたが、その後の地震でや鉄道の開設に伴って現在の地に再建されています。

 さらに先を急ぎます。
店が軒を連なるアーケードを抜けたところに、長野駅から善光寺まで延びる大きな通りに出ます。
バスや車が行き交う通りには、表参道らしく灯篭の姿をした電灯が並んでいます。
そして、道の反対側には北野文芸坐があります。
日本伝統芸能の振興を願い造られた文芸坐は、東京の歌舞伎座を想わせる外観に、日本瓦を使用した大屋根の造りです。
唐破風と呼ばれる曲線が美しい銅板葺きの屋根を備えています。

 参道沿いには酒饅頭やおやき、そして蕎麦屋が並んでいます。
そうです。せっかく信州に来たからには、お蕎麦を食べないでは帰れません。
さっそく手頃そうなお店を見付け、お昼ということにします。
入ってすぐに運ばれてきたのは、蕎麦茶です。
北風にあおられて冷えた身体に、温かく香りのよい蕎麦茶はありがたいものです。
しばらく待つと、今度はざる蕎麦が運ばれてきました。
くるりとねじった手打ちの麺がざるの上に丁寧に並べられ、つゆととろろが別々の入れ物に入っています。
「先ずはつゆで召し上がり、その後はお好みに応じてとろろを」と言われたとおりに、最初はつゆでいただきます。
腰があってそば本来の味に舌鼓し、満足しながら食べ進みます。
そして次は、とろろの入った皿に麺をからませ口に運びます。
こちらはこちらで、とろろの食感と蕎麦の味が混ざり合い、非常に良い味を出しています。
念願の蕎麦も食べ、残るは本日のメインである善光寺です。

 大丸の交差点から先は車が入れず、道は左右に分かれた三叉路になっています。
お参りの人だけが、その先の石畳の参道を進むことができます。
左手に大本願がありますので、寄ってみることにします。
大本願は、創建以来尼公上人を住職としているお寺です。
尼僧としては、伊勢の慶光院、熱田の誓願寺とともに日本三上人といわれていたのですが、今日では大本願の上人様のみが法灯を継承されています。
門を入ったところにある表書院は、尼公上人が本堂へ上るときに使う玄関です。
そしてその奥には、宝物殿などが点在しています。

 大本願を出ると、表参道の先には立派な仁王門が建っています。
1752年に建立されましたが、善光寺大地震などにより二度焼失し、現在の門は1918年に再建されたものです。
高村光雲、米原雲海作の仁王像と三宝荒神、三面大黒天が、仁王門をくぐる参拝客を睨みつけています。
頭の上には、善光寺の山号である「定額山」の額が掲げられています。

 ここから先は仲見世通りです。
通りの左右には、土産物屋、食べ物屋、仏壇屋など様々な店がずらりと並んでいます。
周りを見回しながら、その先にそびえる山門に向かいます。
1750年に建立された山門は、五間三戸二階二重門の様式をもち、屋根は入母屋造りの栩葺で、国の重要文化財にも指定されています。

 大きな山門をくぐると、その先に見えるのが善光寺の本堂です。
はやる心を抑えながら、先ずは右手に見える六地蔵から見ていきます。
1759年に浅草天王町祐昌が願主となって造立されましたが、惜しくも第2次大戦の金物供出に会い、現在の六地蔵は戦後に再興されたものです。
六地蔵とは、地獄、餓鬼、畜生、修羅、人、天の6つの世界で我々衆生を救ってくれる菩薩様のことです。

 そして六地蔵の先には、ぬれ仏があります。
これは1759年に善光寺聖の法誉円信が、全国から喜捨を集めて造立した延命地蔵尊です。
江戸の大火を出したといわれる八百屋お七の霊を慰めたものという伝承が伝えられているため、俗に「八百屋お七のぬれ仏」とも呼ばれています。

 参道の左手の放生池に架かる橋の奥には、大勧進があります。
大勧進の住職は、大本願の上人と共に善光寺住職を兼ねています。
貫主は代々比叡山延暦寺より推挙する慣習になっており、毎朝善光寺本堂で行われるお朝事にお勤めしています。
萬善堂、そしてその奥には位牌堂や護摩堂と続きます。

 さて、いよいよお待ちかねの善光寺の本堂です。
善光寺は日本で仏教の宗派が成立する以前のものであるために特定に宗派には属せず、誰でもお参りすることができます。
善光寺の成り立ちは、周りのお寺で行われて入れる絵解きで知ることができます。
絵解きとは、善光寺縁起の内容を描かれた絵を見ながら説明を受けるもので、いわゆる仏教の絵本です。
仏教を判りやすく伝えたことから、今日までも受け継がれています。

天竺(今のインド)に月蓋という長者がおり、如是姫という娘が流行病に倒れてしまいます。
お釈迦様の教えにより「南無阿弥陀仏」と唱えると阿弥陀如来像が現れ、村の病を快癒してしまいます。
竜宮城の黄金で阿弥陀仏のお姿を残して礼拝したところ、500年もの間栄華が続きます。
その後如来様は百済、そして日本に向かいます。
日本では浪速で仏教を伝来し平静な世が続いたが、ある時流行った熱病が教崇拝のせいだとされて、如来像は難波の堀江に投げ込まれます。
聖徳太子が動乱を鎮め如来像を引き上げようとするものの、如来像は待つべき人がいると身を隠してしまいます。
ある日信濃の国の本田善光が通りかかると、如来像が姿を現し善光に背負われて信濃に帰り、そこで大切に供養されます。
善光が息子を病気で亡くした時、如来像に相談したところ、如来像が閻魔大王のところから皇極天皇ともども息子を救い出してきます。
救われた天皇は善光の如来像を祀るお堂を作りたいとの願いを叶え、これが善光寺と名付けられました。


とのお話です。
善光寺の本堂の中も、見て回ることができます。
びんずる尊主は、神通力が強い釈迦の弟子のひとりで、自分の身体の悪いところを撫ぜてお参りをすることにより、それが治るとされています。
足腰そして頭を撫ぜてきました。さて御利益は。
その他、地蔵菩薩、弥勒菩薩、閻魔王像などが、ここに安置されています。

 本堂の右手には、南無阿弥陀仏の6字にちなみ6本の柱で建てられ鐘楼があります。
そして右手には、1759年に建立された宝形造りの経蔵もあります。
おりしも正月明けの休日、善光寺の境内は多くの参拝客で賑わっていたのでした。

 帰りは、表参道をゆっくり長野駅まで下ります。
長野駅手前の西光寺では、先ほど述べた絵解きを行ってくれます。一度訪れてみてはいかがでしょうか。
また長野駅ロータリーにも、阿弥陀如来に命を救われた如是姫の像が飾られていたのでした。

 
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