にっぽんの旅 信越 長野 松本

[旅の日記]

松本 

 JR中央本線で松本駅に降り立ったのは、朝方です。
松本城を中心とする旧城下町である松本を、本日は訪れます。

 松本の街を歩いていて気付くのは、街の至る所に水が湧き出ていることです。
「まつもと城下町湧水群」として「平成の名水百選」にも選ばれているくらい、豊富な水に支えられてきました。

 足は「松本城」に向かいます。
小笠原氏が林城の支城のひとつとして造った深志城が、「松本城」のはじまりです。
後に小笠原氏は甲斐の武田氏に滅ぼされ、武田氏は深志城を拠点として松本平を支配下におきます。
武田氏滅亡後の1582年、徳川家康の配下となった小笠原貞慶が、深志城を松本城に改名します。
1590年の豊臣秀吉による小田原征伐では松本城主小笠原秀政に代わり、石川数正が入城します。
この時、天守を始め、城郭・城下町の整備を行いました。
大坂の陣以後は、松平康長や水野家などの松本藩の居城となりますが、その後は松平康長にはじまる戸田松平家が「松本城」を代々の居城とすることになります。

 次に訪れたのは「松本城」の北に位置する「松本神社」です。
前身の「暘谷大神社」は、松本城主松平康長と松姫の子の虎松を祀る社でした。
1797年に、今宮八幡宮、片宮八幡宮を勧請して合祀、1831年には共武大神社、淑慎大神社と合祀して五社とし、名称を「松本神社」に改めました。
境内からは、真正面に「松本城」を見ることができます。

 さらに北に歩いて行くと開智小学校があり、駐車場を挟んだ北隣に「旧開智学校」はあります。
松本藩校崇教館の流れを汲み、1873年に旧制小学校「開智学校」として開校しました。
明治時代の代表的な擬洋風建築である「旧開智学校」は、寄棟造、桟瓦葺きの木造2階建てで、漆喰塗の外壁の白が映えています。
中央にある八角塔屋が特徴的です。
建物内部は明治時代の教育資料を展示した博物館として、解放されています。

 さてここで引き返し、再び松本駅方向に街を歩いて行きます。
「松本城」から続く大名通りを、南に下って行きます。

 「女鳥羽川」の東には、武家屋敷長屋門風に整備された「なわて通り」があります。
短い通りを抜けたところに、「四柱神社」があります。
天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、天照大神を祭神とし、4柱の神を祀ることから「四柱神社」と言われています。
地元では「神道さん」と呼ばれ親しまれています。

 「四柱神社」から川を越え、大名通りの反対側には「日本ラジオ博物館」や「松本市はかり資料館」などがあります。
大名通りの反対側には「松本市時計博物館」があります。
建物の壁に大きな振子時計が構えていますので、すぐに判ります。
「松本市時計博物館」では、時計コレクターの本田親蔵が寄贈したコレクションのうち100点余りを常設展示しています。

 駅前まで来ると、ワサビの看板とともに目につくのが、「馬肉」の文字です。
信州は、桜肉でも有名なところなのです。
それでは、珍しいところで桜肉のカツってのはいかがでしょうか。
癖もなく酒にも合うので、是非お勧めしたい食べ方です。

 ということで、またしても最後はうまいもの探しになってしまった、松本の街散策でした。

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