にっぽんの旅 四国 高知 土佐清水

[旅の日記]

四国最南端の足摺岬 

 高知駅からJR土讃線経由の土佐くろしお鉄道の「中村駅」にやってきました。
特急に乗ると乗り換えなしで、高知から2時間のところです。
前回は四万十川を見に訪れたので、「中村駅」は10年ぶりの訪問です。

 駅前でレンタカーを借り、「足摺岬」を目指します。
太平洋の荒々しい海岸線を横目に、車は土佐清水を抜けて足摺岬の先端まで突っ走ります。
途中にあったのが「大岐海岸」です。
遠浅のロングビーチでサーファーが集まる場所です。
春になろうというのに土砂降りの雨が続いた日々で、この日のサーファーは探すのが難しい状況です。

 車はさらに南下します。
そして辿り着いたのが「足摺岬」です。
特に秋の台風シーズンには日本上陸の地点として天気予報でも頻繁に耳にすることのある地名です。
四国の最南端でもあり、断崖絶壁の上にある「足摺岬灯台」が船の航路の大切な羅針盤となっています。
そして駐車場に建つ銅像は、ジョン万次郎です。
この地域の有名人で、教科書にも登場する人物です。
せっかくここまで来たのですから、灯台を見に行きましょう。
灯台までは通路が整備されており、手軽に行くことができます。
しかし台風でなぎ倒されたのか、木が通路をフ塞ぎその間を潜っていく必要があります。

 「足摺岬灯台」は高さ18mの建物です。
海から切り立った崖の上に建っているので、建築物の高さ以上に高く感じます。
光度460,000カンデラで海を照らすものですから、光達距離は38kmにも及びます。
1914年に設置され、第2次世界大戦では米軍機の機銃掃射の的にされます。
1960年には現在見ることができるロケット型のデザインをもつ灯台に改築されています。
船の航行を見守るための目印として、岬の先端でずっと働いています。

 足摺岬の駐車場から5分ほど離れたところに「白山神社」があります。
弘法大師が金剛福寺鎮護の社として創立した神社です。
白皇権現が祀られており、土佐藩主山内氏が崇敬していました。
1916年には、白皇山上にあった白皇権現と合祀されています。
本宮はこれから訪れる「白山洞門」の上の岩場にあります。

 それではその「白山洞門」に行ってみます。
「白山神社」の道路を挟んで反対側に、下の海岸に通じる長く急な石段があります。
石段をほぼ下りきったところに、「白山神社」の本宮へと通じる鳥居が建っています。
鳥居の先は岩を伝っていく崖で、道なき道になっています。
今回位は本宮にはいかずに、「白山洞門」に向かいます。
海岸まで降りたところで見えるのが岩にぽっかりと穴で、これこそが「白山洞門」なのです。
大きな岩山に荒々しい太平洋の波が削った高さ16m、幅17mの大きな穴です。
何か神秘的なものを感じます。

 ここからしばらくは車で移動することにします。
次なる目的地は、ここから8km程離れた中ノ浜村です。
小さな漁師町で、波の音が聞こえる以外はひっそりとしています。
村に走る細い路地を通り「長浜万次郎生家」に向かいます。
のちの「ジョン万次郎」が生まれた家が、ここに再現されています。
藁ぶき屋根の家屋に、板張りの床にはむしろが敷かれています。
決して裕福とは言えない生活ですが、土佐の美味しい魚が胃袋を満たしていたのでしょう。

 それでは「ジョン万次郎」をもっと知るために、ここから9km離れた「ジョン万次郎資料館」に向かいます。
足摺湾に面した場所に、その資料館はあります。
1841年の1月、14歳になった万次郎は鯵鯖漁に出航する漁船に炊係として乗り込みました。
突然の強風で船は流され、航行不能となってしまいました。
5日経って流れ着いたのは伊豆諸島にある無人島の鳥島で、わずかな溜水と藻や鳥を口にしながら143日間を生き延びました。
そして食料となる海亀を確保するために島に立ち寄ったジョン・ハウランド号に、発見され救助されます。
船長ウィリアム・ホイットフィールド率いるアメリカの捕鯨船です。
鎖国していた日本でしたので土佐に帰還することはできず、ジョン・ハウランド号に乗ったままアメリカに向かわざる得ない状況でした。


ハワイのホノルルに寄港した際、救助された5人のうちの4人は下船しましたが、万次郎だけは捕鯨船員となってアメリカ本土を目指して船に乗り続けました。
1843年に船はマサチューセッツ州ニューベッドフォードに帰港します。
ホイットフィールドの故郷であるフェアヘーブンで、万次郎はエバニーザー・エーキン宅で暮らすことになります。
ここで日本人に対する人種差別も経験することになります。
その後は捕鯨船員としての世界中を航海した万次郎ですが、ゴールドラッシュに沸くサンフランシスコへ向かいます。
そこで帰国のための資金を得て、まずはホノルルに渡ります。
1851年にはついにアドベンチャー号で当時の薩摩藩が支配していた琉球への上陸を果たします。
薩摩藩の取調べを受けるわけですが、西洋文物に興味のあった薩摩藩主 島津斉彬は万次郎の英語力と造船知識に注目し薩摩藩の洋学校である開成所の英語講師として招いています。

漂流から11年目の1852年に、願っていた故郷土佐に帰り母と再会することができたのでした。
万次郎は土佐藩の士分に取り立てられ、藩校の教授館で教授に任命され、後藤象二郎や岩崎弥太郎などに教鞭をとっています。
その後は日米修好通商条約の批准に際し活躍することになりますが、これは余りにも有名なことです。
資料館には遭難してからの万次郎の苦労と活躍の生きざまだけでなく、アメリカから持ち帰ったジーンズについても伝えています。

 ここからは9km西の「竜串海岸」に車で向かいます。
今回の旅行で最も行きたかったところのひとつです。
「竜串海岸」は足摺宇和海国立公園にあり、棒状の岩が並ぶ独特の風景が広がります。
砂岩と泥岩の層が互いになり、波食、風食を受けて形成されたものです。

せっかくなので遊歩道を歩いてみます。
遊歩道といっても綺麗な道路があるのではなく、柱状節理のくぼんだ部分の所々を道のごとく埋めた簡単なもので、目を凝らしていなければ道を見分けなければならないほどです。
おまけに波や直前の雨で濡れた丸みを帯びた岩場を、滑らないように精神を集中する必要があります。
それでも「大竹小竹」と呼ばれる箇所では、目の前に海に向かって一直線に伸びる柱状節理を見ることができます。
また「蛙の千匹連れ」では、なめらかに削られた岩場の表面に無数のカエルが群がっているかのごとく、黒い凸凹がくっついているのです。
波が造った自然の造形美を見ることができたのでした。

 その近くにある「県立足摺海洋館」は、海の上の水族館です。

海面に潜り自然の生態を見ることができる場所です。
1975年に開館しましたが、今あるのは2020年に再開した新しい建物です。

 こうして四国最南端の土佐清水の海岸線を見てきました。
行きたかった「竜串海岸」にも行くことができ、満足の1日でした。

旅の写真館(1)