にっぽんの旅 四国 高知 佐川

[旅の日記]

宿毛と吉田茂 

 本日は「宿毛駅」に来ています。
「土佐くろしお鉄道」の終着駅で、四国の最西端にして最南端の鉄道駅です。
1997年に開業した比較的新しい駅で、JRに連絡している特急列車がここに停まります。
観光目的で来ることはないのでしょうが、今回はひょんなことで訪れる機会がありました。
こんな良い機会はなかなかないので、今日は宿毛の町を見て回ります。

 本日の町散策の起点は、「宿毛歴史館」です。
江戸時代に城下町として栄えたの宿毛の町並みが、模型で再現されています。
また宿毛が生んだ偉人が紹介されています。
それではそんな偉人を辿って、宿毛の町を歩いてみます。

 歴史館の道向こうには、政治家であり実業家の竹内綱、吉田明太郎の「富国強兵基」の石碑が飾られています。
炭鉱事業を興し、小松製作所の経営に係ったふたりです。
人材育成にも力を注ぎ、早稲田大学理工学部の設立や私立高知工業学校も開講しました。
吉田明太郎といえば、吉田茂の兄に当たる人物です。

 歴史館の南西の隅に、もうひとつの碑を発見しました。
「小野氏邸跡」と書かれています。
小野義真を称える石碑で、1839年に宿毛の大庄屋の家に生まれました。
27歳の時には、宿毛領仕置役小頭として大阪と宿毛の間を帆船「宿毛丸」で行き来するようになります。
後藤象二郎が設立したの商社 蓬來社の組合員となり、1871年には小野梓の欧米留学も支援しています。
1871年に工部省に入ったころから全国区への進出を果たし、各地の改修工事にも携わるようになります。
そして岩崎彌太郎の顧問となり、今の三菱の礎を築いた人物です。

 歴史館からは北に1筋すすんだところにも、碑が建っています。
こちらは「竹内綱、吉田茂邸跡」です。
建物は残っていませんが、宿毛が生んだ最も名の通っている人物ではないでしょうか。
高知県宿毛出身の自由民権運動の闘士で板垣退助の腹心だった竹内綱の五男として、東京で生まれます。
ところが茂が生まれる直前に、反政府陰謀に加わったということで父親は長崎で逮捕されてしまいます。
残念なことに実母の身元はいまでも判っていません。
茂の実父と養父は明治維新で名をはせた両名でした。
茂は1881年には旧福井藩士で横浜の貿易商吉田健三の養子となり、これが吉田姓を名乗る所以です。
慶應義塾ならびに東京物理学校(現東京理科大学)に入学するものの、いずれも中退してしまいます。
結局1897年に学習院に進むことになります。
このころから外交官志望に目覚めた茂は本気を出し、1904年に無試験で東京帝国大学法科大学に移ることになります。
1906年には外交官および領事官試験に合格し外務省に入省することから、政治への道を進むことになります。
太平洋戦争開戦前には、ジョセフ・グルー米大使や東郷茂徳外相らと開戦阻止に向けて動きますが、願いは叶いませんでした。
終戦後は東久邇宮内閣の外務大臣に就任し、1946年の日本自由党総裁鳩山一郎の公職追放に伴う後任総裁として、内閣総理大臣に就任することになります。
大日本帝国憲法下の天皇組閣大命による最後の首相として、戦後の経済復興を推し進めました。
その後の社会党政権である片山内閣時代には、政策に不満を持ち民主党を離党した幣原喜重郎や田中角榮らの民主クラブと日本自由党が合併した民主自由党が結成され、吉田が総裁に就任しました。
ここから第2〜5次吉田内閣という長期政権に突き進み、サンフランシスコ平和条約の締結にこぎつけます。
そして佐藤栄作らとともに無所属となりますが、池田勇人の仲介で1957年に結成間もない自由民主党に入党します。
しかし1963年には次期選挙への不出馬を表明し、政界から引退したのでした。

 ここからさらに北に向かい歩きます。
宿毛保育園を越えたところの丘の麓に、「松田城跡」の碑が建っています。
松田兵庫が居城としていたところです。
宿毛城の別名で、宿毛が城下町として栄えたことを物語っています。
脇には丘に登る階段があり、「石鎚神社」の鳥居があります。
石段を登り、昔の「松田城跡」を目に焼き付けてきます。
ところが神社は人の手が入っていないのか、境内には草が生い茂っています。
ちょっぴり悲しい思いをしたのでした。

 気を取り戻して、宿毛保育園の西側の宿毛小学校のところまで進みます。
ここにあるのが「日新館跡」です。
残っているのは「日新館」があったことを示す石碑だけですが、1831年の郷学校「講授館」、1863年に名を改め「文館」、そして1867年の「日新館」の設立と土佐藩では教育を重んじでいたことが判ります。
そして碑の建っているのも小学校の敷地内というのは、何かの巡り合わせでしょうか。
小学校を挟んだ西側には「歴史ふれあい広場」があり、
松田川に宿毛総曲輪と呼ばれる大規模な堤防工事をして宿毛の町を洪水から救った野中兼山達の像が並んでいます。

 「東福院」は初代宿毛領主山内氏によって再興され、宿毛山内氏の菩堤寺です。
野中兼山は大きな功績を挙げた半面、川の付け替えなどで反対する敵も多く作りました。
さらには過酷な治水工事を強いたことから、後に罪に問われることになります。
その野中兼山の墓も、この敷地内にあります。

 ここからは南に折れて、宿毛の町を1周します。
「清宝寺」は、法学者で政治運動家であった小野梓ゆかりの寺院でもあります。
小野梓といえば大隈重信を助け東京専門学校(現早稲田大学)の創立の中心者で、早稲田大学建学の母と言われています。
彼も武士小野節吉の次男として宿毛で生まれたひとりです。

 そんな小野梓を称えているのが近所にある「小野梓記念公園」です。
公園内には小野梓の他にも、ふたりの胸像が飾られています。
坂本嘉治馬は小野梓を慕い東京に出ていき小野梓が経営する東洋館書店に入り、後には出版社 冨山房を設立します。
そこで大日本家庭百科事典、大日本国語事典、大言海、国民百科事典、大日本地名事典などを出版してきました。
宿毛にある「坂本図書館」も嘉治馬が創設したものです。
もうひとりは吉田茂の実兄である竹内明太郎で、前述の「富国強兵基」の石碑で示すように宿毛の発展に寄与したことが称されています。

 さて町を1周して、「宿毛歴史館」まで戻ってきました。
歴史館の南には、農商務大臣や逓信大臣を歴任した「林邸」が保存されています。
1889年に林有造が建築した邸宅で、自由民権運動の本拠地として重要な役割を担ってきました。
現在は「宿毛まちのえき」として解放され、地域のために活用されています。

 さてここからは車で移動して、山奈町に珍しいものを見に行きます。
車で10分余り走ると、そこは一面の田んぼになります。
そんなところに「浜田の泊り屋」がありました。
幕末から明治にかけて、泊り屋を建てて若い衆が宿泊する風習がありました。
高床式の家屋で、当時は百数十ヵ所に存在していたとされますが、いまこの芳奈部落に残っているのは4箇所だけです。
その奥には鷂神社、八王子神社もあり、泊り屋とともに地域の生活に密着していたことを窺い知れます。

 これまでなじみの薄かった宿毛ですが、本日改めて町を回って感じたことは歴史濃い町ということでした。
吉田茂を始めとした著名人を輩出し、その基礎には藩の教育が徹底していたことに気付かされたのでした。

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