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[旅の日記]

牧野富太郎を生んだ佐川 

 今日のスタートはJR高知駅です。
高知駅から、JR土讃線に乗って普通列車で窪川方向へ1時間の場所に「佐川駅」があります。
小さな駅ですが、牧野富太郎を生んだ佐川の町を歩いてみます。

 駅を降りると、そこには佐川一の道路が通じています。
この辺りで「土佐街道」と「松山街道」が重なっているところです。
車はそこそこ通るのですが、街はシャッターが下りた状態でちらほら観光客らしき人の姿を見るだけです。
訪れたのが日曜日だったからでしょうか。

 5分も歩けば、古い町並みが残る一角に着きます。
佐川の上町地区です。
そこには「佐川町鳥観図」が掲げられています。
今回の散策する部分も記載がありますが、この一帯だけなので地図なしでも行けそうです。

 ここから先は「酒蔵の道」と呼ばれる通りを歩きます。
道の左側に「司牡丹酒造」の提灯が吊るされた建物が見えます。
関ヶ原の合戦が終った1603年に徳川家康から土佐24万石を賜った山内一豊に伴い、山内家の首席家老である深尾和泉守重良が佐川に入国します。
その時与えられたのは1万石でした。
深尾氏に従ってきた商家の中には酒造りを業とする「御酒屋」が多く見られ、彼らは深尾家出入りの御用商人として名字・帯刀を許されていました。
数多く存在した酒元ですが、1918年に佐川の酒造家が結集して「司牡丹酒造」を造ったのが、この辺りに点在する酒蔵です。
「牡丹は百花の王、さらに牡丹の中の司たるべし」という意味を込めて、「司牡丹」という名前になったということです。
酒蔵の証である杉玉を見ることもできます。

 通りの右手にあるのが「竹村家住宅」です。
造り酒屋として栄えた商家で、店舗部は1780年頃、座敷部は1838年の建築で歴史のあるものです。
家業は順調で江戸時代後期には領主深尾家に資金を調達をするまでの佐川屈指の商家になりました。
その甲斐あって名字帯刀を許され、1770年には「黒金屋」の屋号を与えられるようになりました。
徳川幕府の巡検使の宿としても使われたということで、本日は見ることができませんでしたが武家屋敷にも劣らない欄間をもつ座敷があるということです。

 さらに先の右手にある雑貨屋「キリン館」は、マルキュウの呼称で通った「旧竹村呉服店」の建物です。
鱗壁を今に残しています。
隣接する竹村本家から分家したもので、代々安右衛門を襲名してきました。
最初は質屋から始め、のちに呉服商や雑貨商を営みました。
3代目安七の時には、土佐西部で唯一の絹物商として大変繁栄したということです。

 「旧浜口家住宅」は、立派な佇まいを残しています。
江戸中期より酒造業を営んだ浜口家の住宅跡で、現在は「さかわ観光協会」として利用されています。

土産物が並び、ここで休憩を取ることもできる場所です。
土間を入り畳の敷かれた部屋に上がると、妙に落ち着くのは日本人だからでしょうか。

 多くの維新の志士や偉人を輩出した佐川ですが、それに一役買ったのが「名教館」です。
佐川領主深尾氏が1772年に家塾として開いたもので、のちには郷校として佐川の教育になくてはならない重要な存在になりました。
1830年には東元町に校舎を建設し、明治に入ってからは「佐川尋常小学校」と改名して中本町に校舎を建築しました。
それらの源となるのが、この「名教館」です。

 「名教館」の向かいには、この地区に似合わない洋風の建物があります。
もともと上町の山側にあった「旧須崎警察署佐川分署」で、当時は画期的なデザインでした。
「旧青山文庫」としても使われ、鹿鳴館時代の面影を残した県下最古の木造洋館です。
2009年に現在の場所に移築されました。
2階建ての建物の内部を見学することができ、バルコニーを有しシャンデリアが灯る洋室があります。

 その隣には車両が保管されている施設があります。
土讃線を走った国鉄時代の木造2等客車を譲り受け、ここで展示しています。
1906年製造の「ロ481号」で、廃車後に展示されていましたが老朽化により一旦は国鉄に返還され多度津工場にありました。
新たに展示施設が完成したことから、再びここで保管することになりました。
観光案内所の併設され、新たな観光名所となることでしょう。

 「酒蔵の道」をさらに進むと、そこに「牧野富太郎ふるさと館」があります。
植物学者牧野富太郎の生家です。
そういえば先ほど訪れた「旧須崎警察署佐川分署」にも、牧野富太郎をドラマ化したNHK朝の「らんまん」のパネル展示がありました。
1862年から1957年にかけて生存した、この地が誇る学者です。
「岸屋」という屋号の雑貨と酒造業を営む裕福な家に生まれました。
3歳で父の佐平を、5歳で母の久壽を亡くし、祖父の後妻である浪子に育てられました。
10歳より西谷にある土居謙護の教える寺子屋へ、11歳になると「名教館」に入って儒学者伊藤蘭林に学びます。
学制改革により「名教館」は「佐川小学校」になり富太郎も入学しますが、わずか2年で辞めてしまいます。
造り酒屋の跡取りで学問で身を立てる必要がないというのが表向きの理由でしたが、実は寺小屋で習得した学業に較べて小学校の勉強の程度の低さに嫌気が差したというのが本音です。
それを証拠に15歳の時に小学校で臨時教員に採用され、今度は教える立場になったのでした。
ここから富太郎は植物に興味を持ち。独学で学ぶようになります。
1884年の22歳になった富太郎は、本格的な植物学を志し上京します。
そして東京大学理学部の植物学教室の矢田部良吉教授を訪ね、同教室に出入りして研究に没頭することになります。
26歳になるとかねてから構想していた「日本植物志図篇」の刊行を自費で始めます。
しかしその研究費や東京と行き来する交通費で、実家の経営は次第に傾いていき1891年にはついに破綻してしまいます。
1900年には「大日本植物志」、1916年には「植物研究雑誌」を創刊しています。
苦しいながらも94歳で死去するまで日本全国を回り、膨大な数の植物標本を作成しました。
所蔵していた標本は40万枚に及び、命名植物は1,500種類を超えるまさに「日本の植物学の父」となったのでした。

 「牧野富太郎ふるさと館」が町のほぼ端で、その先は家の数が極端に減ってしまいます。
そこにあったのが「西谷の泉」で、水が湧き出しています。
近付くとカエルが一斉に跳んで逃げていくので、清水とはいえ水に手をつけることさえ躊躇ってしまいました。
ここで右に曲がり、「旧林邸」の前を抜けていきます。
石垣と白亜の土塀が綺麗なところです。

 ここで折り返して先ほど歩いてきた「酒蔵の道」と平行して走る「土佐街道」を進みます。
「名教館」の近くにあるのが、「旧伊藤蘭林私塾」の建物です。
牧野富太郎もここに通い学んだことのある所です。

 その先は「司牡丹酒造」の大きな建物が続きます。
煙突が見えていましたが、「司牡丹」がここにあったことに気付きます。
今回の自分への土産は、「司牡丹」に決めたのでした。

最後に訪れるのが「牧野公園」です。
ちょうど「旧須崎警察署佐川分署」の横を山側に向かい上り坂が続きます。
右手には「金峰神社」に続く階段があります。
左手には現在の「青山文庫」の鉄筋の大きな建物があります。
「青山文庫」は1910年に佐川郵便局長である川田豊太郎の私設図書館として創立されました。
1925年にはその活動に賛同する佐川町出身の田中光顕が基金や蔵書などを寄贈し、幕末の佐川や領主深尾家に関する資料が収められています。
「青山文庫」の「青山」は、田中光顕の雅号から名づけられたものです。

 その先に目指す「牧野公園」があります。
牧野富太郎がすぐ近くで標本採取をしているかの如く、ベンチには帽子と標本箱が置かれています。
そして訪れた3月は、春の花が咲くには少し早いころです。
そんななかで黄色い花をつけるアテツマンサクやサンシュユ、それにピンクのフジツツジが咲いています。
コヒガンザクラもちらほら花をつけており、満開になるまでもう少しといったところです。
山一帯に様々な樹木が植えられており、これからの季節は花と葉の緑が鮮やかに映えることでしょう。
これこそが佐川が生んだ牧野富太郎が、地元のために残した大きな財産ではないでしょうか。

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