にっぽんの旅 四国 高知 中村

[旅の日記]

最後の清流 四万十 

 最後の清流と言われる「四万十川」にあこがれて、四国は高知県の中村駅にやってきました。
土佐くろしお鉄道の中村駅には、JR特急が乗り入れています。
高知からは、特急でも1時間40分もかかるところです。

 駅舎は立派な造りで、木の香りが漂う待合室は明るく清潔な印象をもちました。
四万十までは、バスなら本数が限られており、タクシーなら金額がかさみ、観光バスはあるものの日に1回の出発時間を待つぐらいなら自力で行こうと、自転車を借りることにします。
幸い駅前にはレンタサイクルが、そして少し歩いた観光案内所にも自転車が置いてあります。
時間が早かったので、レンタサイクル屋が開くのを待ちます。
駅前にはバッテリー付のものもあり、四万十の坂を考えてそれを借りることにしました。

 レンタサイクル屋で渡された地図に従って進みます。
「最初のコンビニのところで左に曲がって」と教えられたものの、都会では腐るほどあるコンビニですから本当に曲がる角を見付けられるのかと、半信半疑で走り出しました。
この辺りは道も平坦で、スイスイ走ることができます。
ところが、コンビニはここにしかなかったのです。
無事曲がり角も見つけ、その先の四万十川橋の赤鉄橋を越えると、川に沿って上流へと自転車を進めます。
ゆっくりと流れる四万十川を眺めながら、川辺の遊歩道を進みます。
帆掛け船も泊まっています。

 遊歩道も、やがては車1台が通れる道に変わり、徐々に坂道となっていきます。
そんな小川の脇に、上野神社はあります。
鳥居の先に、小さな本殿がポツリと建っています。
小川に架かる橋には、コンクリートの表面にうまい具合に苔が生していて、趣のある様を見せています。

 さらに先を進みます。
右手に道が分かれたますが、ここが「佐田沈下橋」です。
正式には「今成橋」といい、291mと四万十川で最も長い沈下橋です。
沈下橋とは河川を渡る橋の一種で、河川敷とほぼ同じか少し高いだけの橋です。
普段は橋として使えるものの、増水時には水面下に沈んでしまう橋のことをいいます。
増水時には水の流れに逆らうことなく、橋が流されることもありません。
沈下橋の特徴として、沈んだ時に水の抵抗にならないように、橋の上に本来橋に備わっていなければならない欄干がありません。
増水に強いということと、低い位置に架橋されることから架橋長が短くて済み、低廉な費用で作ることができるのです。
これらのことから、四万十川には47の沈下橋を有しているのです。

 「佐田沈下橋」を、ふらついて川に落ちないように、対岸まで自転車で渡ります。
この先の「深木沈下橋」まで進もうとしたのですが、道が塞がれています。
警部員がやってきて言うには、この先が工事で今日は通ることができないようです。
再び橋を渡って戻り、川の南側の細い道を進むことにします。

 坂道を登り、数件の民家が見えたところに「朝日神社」があります。
その先もアップダウンの坂が続きます。
ふと右手に小路が見えたかと思うと、そこが「深木沈下橋」、正式名を「三里橋」の入り口でした。
車1台が通れば、途中で交差することもできない沈下橋です。
事実、自転車で渡り橋の途中で写真を撮ろうとすると、後ろから来たタクシーに道を譲ってくれと頼まれ、引き返したぐらいですから。
「四万十川」は「最後の清流」という言葉通り、川底が見えるくらい澄んで静かに流れています。
川の途中まで来ると、紐でくくられた筒状のものが流れに沿って沈められています。
多分これはウナギの仕掛けでしょう。
四万十の天然ウナギが、こうして採られるのですね。
川には屋形船がゆっくりと進んできます。なんとも優雅な風景です。
しばらくは、背景の山々の緑と川の流れを眺めながら、静かななかで時間を過ごします。

 さて、帰りは「佐田沈下橋」まで戻り、今度は川の北側の道を進みます。
こちらは、車が対面通行できるような整備された道路が走っています。
時折、「四万十川」を眺める場所も用意されており、そのたびに停まりながら次なる目的地の「安並水車の里」を目指します。

 中村の市街地の北側にあり、四万十川支流である後川のそばの田んぼの中に「安並水車の里」はあります。
野中兼三が分水目的で造った用水路「四ヶ村溝」に、今でも水車が並んでいます。
当時はもっと多くの水車が備わっていたということですが、今でも10基ほどの水車が残っており、並んで水をくみ上げています。

 そろそろ自転車のバッテリーも残り少なくなってき、少し気になるところですが、ここからいよいよ中村市街地に入ります。
県立中村高校の南側の「中村城」を見上げるところに、「中村大神宮」があります。
その横には、「游焉塾」跡の石碑があります。
木戸明が学問のために京都に行き、中村に帰ってきた後に興した私塾が「游焉塾」です。
その後、中村尋常中学校の開校と共に招かれ、多くの人材を世に輩出してきました。
また勤王運動にも奔走した人物です。

 さて「中村城跡」に建つ、「中村城郷土資料館」に行ってみることにします。
城があったところですので、小高い山の山頂です。
徒歩では階段が、そして車は細い急な上り坂が続きます。
自転車で上るのは無謀ですが、置いて行くわけもいかず、汗だくになって押しながら山道を進みます。
途中、「南海大地震記念碑」が建っており、今にでも起こると言われている次回の南海地震が、現実のものとして感じられます。
中村城跡は、その先の山頂にあります。

 応仁の乱を避けた一条教房がこの地に入り、四万十の豪族である為松氏を家老にし、造らせた城が「中村城」です。
一条家が兼定の時に豊後へ追放され、その後に長宗我部元親に攻められ一条家は滅亡します。
関ヶ原の戦い後には、山内一豊に土佐一国が与えられ、弟の康豊が居城としていました。
一国一城令に伴い廃城となった「中村城」ですが、いまは城の形をした「中村城郷土資料館」として復元されています。
四万十川を臨むことができる館内には、土佐一条家にまつわる品々や勤王運動に関する日記などが展示されています。

 それでは、「天神橋商店街」に向かい、食事をとることにします。
ぶらっと入った店は、お茶のおいしいところでした。
そして食べ終わった後には、なんとカステラとコーヒーが出て来るのです。
びっくりして、思わず無料なのかと聞いてしまいました。

 「一條神社」は、商店街のアーケードが切れたところにあります。
土佐一条氏の中村御所があったところで、一条氏の滅亡後は一時荒廃しましたが、1607年に一条氏遺臣により歴代当主の霊を祀る祠が建てられことが、この神社のはじまりです。
境内には、国鉄中村線(現土佐くろしお鉄道中村線)開業記念碑も建っています。

 こうして「最後の清流」と言われる四万十、そして「土佐の小京都」である中村の1日は過ぎて行ったのでした。

     
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