にっぽんの旅 四国 高知 安芸

[旅の日記]

三菱の源 安芸 

 今回は高知県の安芸を訪れます。
高知駅からJR連絡の「土佐くろしお鉄道」で、「安芸駅」にやってきました。
駅にはタイガース車両が停まっています。
この時まで地名の読み方すら判らなかったのですが、「あき」と聞けば阪神タイガースのキャンプ地だったことに感づきました。
どうりで2駅手前に野球場が見えていたということですね。

 「安芸駅」は駅改札と市場が一緒になった、地域密着型の建物です。
まずは本日の散策の順序を確認します。
駅から3〜4km離れたところに見たい場所が固まっていますので、うまく回らなければなりません。
まずは駅から1地番遠いところを攻めて、徐々に戻ってくることにします。

 駅を離れようとしたのですが、駅のロータリーに気になるものがありました。
子供たちが群がって歩く像の横に、「靴が鳴る」の歌詞が掲げられています。
そうです、安芸は作曲家 弘田龍太郎の生まれた土地なのです。
数々の童謡を世に出してきました。
この「お手つないで、野道を行けば」も、龍太郎が作った日本人誰もが知る童謡です。

 今度こそ線路を潜り駅ロータリーとは反対側に渡って、北に向かって歩いていきます。
周りは田畑があるだけで、その周りに家屋そしてその奥には山が迫っています。
のどかな田舎の駅といった雰囲気です。

 20分以上歩いたところに、ひとつめの建物がありました。
「野良時計」という畠中源馬が作った時計があります。
時計台のように時計盤を外から眺めることができるのですが、一般の家についている時計なのです。
まだ家ごとに時計のなかった明治の時代に、この地の旧家で地主であった畠中源馬が自分で組み立てた時計です。
もちろん歯車から分銅に至るまでのすべてが手づくりの時計です。
城壁に瓦屋根をまとった時計台は、今になっても時代の違いを感じない建物です。

 さらに北に向かって進みます。
蔵と見間違えるような消防団の建物と、その横には火の見櫓が建っています。
建物の壁には何層ものひさしが備えられており、それぞれに瓦が敷いてあるのでまるで幾重もの屋根があるかのようです。
この辺りの建物の特徴なのでしょうか、多くの建物に見ることができます。

 駅から4km暗い歩いたところに、本日の最大の見せ場があります。
「岩崎彌太郎生家」がここに残されているのです。
彌太郎は、地下浪人の子として1835年にこの地で生まれました。
岩崎家の先祖はこの地域を治めていた安芸国虎の家臣で、戦国時代には土佐を治めた長我部元親に仕えたことがありました。
関ヶ原の合戦後に山内氏が土佐藩主となってからは山野に隠れて農耕を行っていましたが、再び藩に仕えることで下級武士となりました。
しかし曽祖父の彌次右衛門が金に困って郷士の身分を売り払ってしまったことから、農民と変わらない地下浪人という身分に転落してしまいます。
そんなところに生まれた彌太郎ですから、生活はたいそう苦しかったといわれています。
一方で彌太郎は幼い頃から書を好み、巡察に来た13代藩主山内豊熈に漢詩を献じるほどでした。

 そして19歳で江戸に出て、安積艮斎の門に入ります。
1867年には参政 後藤象二郎の指示で土佐藩開成館長崎出張所の主任になり、手腕を発揮します。
それから開成館大阪出張所(大阪土佐商会)に転勤し。翌年には大阪土佐商会を藩営から独立させた海運業の商社「九十九商会」を設立してその責任者になります。
さらには1871年に「九十九商会」の経営を引き受け、名称を「三川商会」、1873年には「三菱商会」と改称していきます。
海運業では「東洋一の海上王」と呼ばれて、他を寄せ付けない確固たる地位を築くようになっていきます。

その後の三菱財閥となったのでした。 生家の鬼瓦には岩崎家の家紋である「三階菱」の印がはいっていますが、これと山内家の家紋である「三ツ柏」を合わせたものから「九十九商会」の船旗記号になり、それが現在の三菱グループのスリーダイヤモンドのマークになったのです。

 ここでも見られのが、弘田龍太郎の「春よ来い」です。
「春よ来い、早く来い、歩き始めたみいちゃんが」で始まる童謡です。

 ここからは「安芸城」近くの武家屋敷を見て回ります。
最初に訪れたのが「津田家住宅」、そして次が「野村家住宅」です。
当時の屋敷が公開されています。
各屋敷の土塀には丸石を積んだもの、平たい板状の石を積み重ねたものなど様々あり、色々な工夫がされているのを見て回るのも楽しいものです。

 「安芸廓中ふるさと館」は土産物屋と土地の作物を使った食事処です。
休憩がてら立ち寄ることができます。

 いよいよ「安芸城」の敷地内に入っていきましょう。
堀を越えて中に入るとその1角に「後藤家安芸屋敷」があります。
江戸時代の土佐藩家老としての後藤家は高知城の南に屋敷を構えていましたが、安芸土居にも屋敷をもっていました。
当時の「安芸城」の周りは「土居屋敷」と称され、多くの屋敷や馬小屋が並んでいました。
明治になってその多くは取り壊されましたが、いくつかが保存、復元されていまに残っているのです。

 「安芸城」について、安芸親氏がここに城が築かれたのは1309年です。
それ以降、安芸氏代々の居城となります。
しかし安芸国虎の時代には、四国統一を進める長宗我元親との間に合戦が起こります。
24日間のろう城の末、落城を覚悟した国虎は自害を条件に元親に残存する兵士と領民の助命を願い出て、自身は自殺してしまいます。
関ヶ原の合戦では破れた長宗我部盛親に代わり、山内氏に土佐一国を与えられます。
その時重臣の五藤為重に安喜郡周辺の1,100石が与えられ、為重は安喜城を居留地として選びました。
五藤氏が居住した土居とその周囲の家臣団が住む武家屋敷が、現在も「土居廓中」として残されているのです。

 「安芸城」の城内には「歴史民俗資料館」そして「書道美術館」があります。
今回はそのうちの資料館の方を見学することにします。
民具から後藤家の持つ書物や美術工芸品、武具などが展示されています。
何よりも930年台の資料に土佐7郡のひとつとして安芸郡の記載があることに、歴史を感じたのでした。

 1番奥には後藤家の祖先を祀る神社として、「藤崎神社」があります。
そこに記されていたのが以下の通りです。
織田信長の越前朝倉氏攻めに従軍した山内一豊は、敵を討ち取ったものの、左の目尻から右の奥歯にかけて矢を射られた。
重臣の為浄はその矢を抜こうとするがなかなか抜けず、わらじをはいたまま一豊の顔を踏み、矢を抜き取った。
土佐藩主となった一豊は、為浄の武功を重んじて五藤家に安芸を預けた。
武功のきっかけとなった鏃は五藤家の家宝となり、為浄がはいていたわらじは、藤崎神社のご神体となったと伝えられる。
 ここから駅に向かって折り返していきます。
近くの公園には、弘田龍太郎の「叱られて」の碑が建っています。
これまた有名な曲です。
来るときに寄った「野良時計」の近くの公園にも、もうひとつ弘田龍太郎の碑があります。
こちらは「こいのぼり」で、同名の今日がありますが「甍の波と雲の波」から始まる方の「こいのぼり」です。
今回は寄ることができませんでしたが、「どんぐり」や「雀の学校」、「お山のお猿」などもすべて彼の曲なのです。

 「安芸駅」に戻ると、面白い情報を入手しました。
「土佐くろしお鉄道」にクジラの模様が入ったトロッコ列車が走っているということです。
安芸駅と奈半利駅を往復しており、本日の列車は奈半利に向かって発車していてもう乗ることができないが見るだけなら可能ということです。
列車が戻ってくるまで1時間以上もあります。
せっかく来たのにみすみす帰ることもできませんので、時間をつぶして待つことにします。
そしてホームに入ってきたのは、クジラの絵が描かれた「やたろう号・しんたろう号」です。
クジラを前から見た詩型が愛くるしい列車でした。

 本日は、岩崎彌太郎そして弘田龍太郎が生まれた安芸江巡ることができました。
長宗我支配時代には「安芸」から一時は「安喜」を名乗ることがあったなど、面白い発見ができた1日でした。

旅の写真館(1)