にっぽんの旅 四国 愛媛 内子

[旅の日記]

木蝋で栄えた内子 

 松山から50分の内子にやってきました。
普通列車なら50分ですが、特急ならその半分で着きます。
本当はローカル線普通でゆっくりと行きたいところですが、普通列車は数時間に1本しかなくそこまで待つことはできません。
愛想はないものの特急列車に乗り込み、すんなり着いてしまいました。

 駅から10分足らずのところに「内子座」があります。
1916年に大正天皇の即位を祝って創建された芝居小屋です。
木造2階建ての入母屋造りで、回り舞台をもつ本格的な芝居小屋です。
650人を収容することができます。
桝席の間の花道を檜舞台まで歩くことができ、役者あこがれの体験ができます。
地下の奈落に下りると、回り舞台を人力で動かすしくみを見ることができます。
さらには2階に上がり、舞台を正面に見下ろす場所が大向です。
低料金の客席として重宝がられていました。
ここでは落語や文楽、歌舞伎などが今でも時折行われている、市民の憩いの場なのです。

 モダンであるがレトロ感が漂う建物は「ビジターセンター」です。
町の見どころを案内してくれ、内子町に関わる作品も展示されています。
元々は警察署として建てられただけあって、がっちりとした造りの建物です。

 その隣には「化育校」が残されています。
「化育校」とは桜ヶ丘、文階、耕余の3つの小学校を統合してできた学校です。
1892年には八ヶ村組合立内子高等小学校となって、初代校長に遠山成道を招きます。
成道は外国人から教わったベースボールを気に入り、体育の授業に取り入れます。
校舎はその後、内子郵便局、内子信用組合、内子町農業協同組合と受け継がれ、使い続けてきました。

 その先には内子町歴史民俗市旅館、通称「商いと暮らし博物館」があります。
江戸から明治にかけての商家が再現されています。
薬瓶がずらりと並んだ薬屋の店先が、出迎えてくれます。
奥に入ると和室で床間で客の相手をする主人、家族との食事風景、お勝手で食事の支度をする女将さん、そして薬を調合する様子が、本物のような人形を使って再現されています。
ひとつひとつ部屋を見て回ることができるのです。

 「商いと暮らし博物館」に対して道を挟んだ反対側には、「八幡神社」があります。
何故か気になり、立ち寄って見ます。
そしてその通りの先には「下芳我邸」があります。
店先には山菜そばとぜんざい、そしてそば団子の看板が掛かっています。
風情ある造りをした家で、帰りに時間があればこの落ち着いた雰囲気の中でそばを楽しみたいものです。

 独特な造りをした伊予銀行が見えてくると、その角を左に曲がります。
ここから先が重要伝統的建造物群保存地区に指定されている「八日市護国」です。
旧街道沿いには、江戸末期から明治にかけて建てられた商家や民家が軒を連ねています。
当時にタイムスリップしたかのような錯覚をしてしまいます。
この雰囲気ある街並みですが、実際に人が生活している生きた町なのです。
やたら目に入る「酢卵」の看板ですが、そういえば親が健康のためにか黒酢に卵をまるごと沈め、殻が融けて薄い皮になるまで待ったところで酢を飲んでいたことを思い出します。
ここで売っている「酢卵」とは、そのことなのでしょうか。
そうだとすれば恐らく買うことはないので、冷やかしであっても怖くて店を訪ねることすらしませんでした。

 それではここで、和蝋燭の店に入ってみましょう。
内子は蝋燭の町として、栄えてきました。
町を歩いて行くと、蝋燭で財を成した大きな屋敷を目にすることができます。
そしてここ6代目大森も、今に伝わる和蝋燭を製造販売しています。
店の奥には、溶けた蝋を手作業で竹串に巻き付けられた和紙に馴染ませていきます。
竹串を回しながら蝋燭の太さになるまで、少しずつ蝋をつけていきます。
その製造する様子を、ガラス越しに見ることができます。
実に根気のいる仕事です。
その代わりに火を灯した和蝋燭は、しっかりした炎に安定感があります。
写真を撮ろうとすると、店の人が蝋燭に火をつけてくれました。
珍しさにも誘われて、1本買ってしまいました。

 先を進みましょう。
「町屋資料館」は商家の様子を今に伝えるため、自由に見学することができる場所です。
1793年に建てられた庄屋を修復したものです。
土間から見える番頭さんの部屋、その奥には家族が食事を取るためのお膳が、家族の数だけ並んでいます。
もう少し待っていると、皆がここに集まって来そうな雰囲気です。

 ここで少し通りを逸れて、脇道を進んでみます。
そこにあるのは、森文醸造などが1925年に造った「旭館」という名の映画館です。
店の看板には「活動写真館 旭館」の文字が刻まれています。
丹下左膳の顔を入れて写真を撮る看板や、森の石松、黒部の太陽、幸福の黄色いハンカチ、男はつらいよなどのポスターが所狭しと壁いっぱいに貼られています。
残念ながら1967年に閉館してしまいましたが、保存会が結成され「内子座」とともに内子を代表する遺産にしようという動きが広まっています。

 映画に酔いしれた後は、再び「八日市護国」の通りに戻りましょう。
「大村家」は江戸時代からの商家で、太和屋と称していました。
真っ白の漆喰の壁が、眩しいです。
江戸の時代には何を商っていたかは定かではありませんが、少なくとも明治になると染物商を、そしてその後は大正にかけて生糸製造に関わっていたことが判っています。
寛政年間の母家は、町内でも最古級の建物です。

 その隣にはなまこ壁の外観をもつ「本芳我家住宅」があります。
本芳我家は製蝋業で栄えた芳我家一族の本家です。
1736年から木蝋生産を始めたとされ、1840年にこの地に移り住んで来ました。
明治時代には「旭鶴」の名で海外にも製品を輸出するなど、巨額の財を成し内子の町の発展に寄与してきました。
上芳我家、中芳我家などは、ここから分家したものです。
鶴や亀が施された漆喰細工には、内子の街並みの中でも目を見張るものがあります。
庭が解放されていて、緑豊かな庭から本芳我家の屋敷を眺めることもできます。

 そして通りをさらに進むと「上芳我家住宅」があります。
本芳我家の筆頭分家の屋敷です。
敷地内には現在でも10棟が残っており、居住部分とともに木蝋生産のための施設があります。
1894年の建物で、出店倉に至っては分家した1861年ごろのものとされています。
母家の2階に上ると、大黒柱と太い梁で組まれた天井裏の見事な造りを見ることができます。
和室の先の渡り廊下を庭を見ながら進みます。
さらに奥には別棟で「上芳我邸木蝋資料」があり、木蝋生産の様子を見学できます。
また作業小屋には、ハゼの実を煮たものから木蝋を絞り出すための圧搾機が残されています。

 蝋燭で栄えた内子の町、そしてその富の象徴であり今なお残る大きな屋敷。
今は静かなこの町に、かつての賑やかだったころを思い出させる内子の旅でした。

     
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