にっぽんの旅 四国 愛媛 大洲

[旅の日記]

伊予大洲とおはなはん  

 愛媛県の伊予大洲に来ています。
「伊予の小京都」と呼ばれるこの地は、肱川の流域に建つ大洲城を中心に発展した城下町です。
この伊予大洲を、本日は散策してみます。

 JR予讃線でやって来た伊予大洲駅からは、線路沿いの道を歩きます。
やがて斜めに交差する県道43号線に向きを変えて、南に進みます。
中央線が引かれていない昔からあるような道で、通りには店が並んでします。
ここが「そのまち商店街」です。
この辺りの暮らしを支えている通りといった感じです。
 肱川に架かる肱川橋の手前で、国道56号線に合流します。
ここから橋を渡り、川の南側に広がる大洲の旧市街に入っていきます。
橋の上からは、川辺の高台の上にそびえている大洲城が見えます。
静かに流れる肱川に、城の姿が美しい眺めです。

 肱川橋を渡り切ると、左手の道を入っていきます。
本町通りには、昔ながらの趣のある家々が軒を並べています。
通りの街灯でさえも家並に合わせたかのように、情緒のあるものになっています。
そんななか、左手に煉瓦造りの建物が見えてきます。
「おおず赤煉瓦館」で、1901年に大洲商業銀行として建築されたものです。
当外壁に赤レンガを使用しており、当時としては珍しく斬新なものです。
イギリス積みの煉瓦建築で、屋根には和瓦が敷かれています。
そして屋根の鬼瓦には「商」の文字が入っています。 館内には工芸品や大洲の特産品が並び、2階には休憩所が設けられています。
また別棟ではなつかしの映画コレクション展が常設されており、懐かしい映画のポスターが展示されています。
カメラや映写機なども揃っており、昔映画にはまった身にとっては嬉しい空間でした。

 さらに歩いて行きましょう。
広場の塀に懐かしい看板がずらりと並んでいる場所があります。
興味が引かれるので、奥に入ってみます。
するとこれまた昔の駄菓子屋を再現したような一角があり、その前で地域の人々が椅子を囲んでしゃべっています。
「ポコペン横町」と呼ばれるところです。
どう見ても現在の風景とはいえないのに、そこに居る人々は当たり前のように過ごしており、まるで昭和の映画のシーンを見ているようです。
実に不思議な空間に迷い込んでしまい、それでいてこの雰囲気に酔っている自分が心地よいのでした。

 その先の突き当りで南に折れ、「明治の家並」が続く通りを進みます。
白漆喰となまこ壁の蔵や、木の塀に囲まれたこの通りは、明治の風景を伝えています。
短い通りの角には、「大洲神社」続く石段が続ぎます。
長い階段を上り、神社に立ち寄ってみることにします。

 「大洲神社」は、1331年に宇都宮豊房公が大洲城を築いた時に、下野國(今の栃木県)二荒山神社より勧請されて太郎宮として祭られたのが始まりです。
それ以降の藩主もこの神社を祈願所と定めて信仰し、御社殿の造営や修復を行い神社を守ってきました。
境内には、「大洲神社」の祭神である竹竿を持った恵比寿神の石像が佇んでいます。
またここからは、大洲の城下町を一望することもできます。

 それでは大洲の代表的な建物ある「臥龍山荘」に寄って見ます。
山荘は「大洲神社」の裏手にあり、道を下っていくとすぐのところです。
門を潜って中に入ってみましょう。
庭園を臨む藁ぶきの屋敷の中を、見て回ることができます。
そして縁側からは、庭園もさることながらその先に見下ろす肱川の流れを楽しむことができます。
縁側に腰をおろして、しばらくはこの風景を満喫することにします。
ここに庭園を築いたのは、藤堂高虎の重臣 渡辺勘兵衛で、文禄年間のことでした。
吉野の桜や龍田の楓を集め、庭園を作り上げていきます。
庭園自体は決して広大ではないものですが、川をも含めた壮大なながめです。
現在の山荘は、明治時代の豪商で木蝋貿易に成功した河内寅次郎のもので、老後の余生をここで過ごしたいと建てたものです。
結局、寅次郎は死去しここでの暮らしは短期間であったのですが、弟の上甲文友にこの地の管理を任された養子の陽一が大戦の戦災を逃れ引き上げ先としてこの地に留まって利用されてきました。
川に沿って細長い庭園の先には茶室があり、ここからも肱川の流れを眺めることができます。
 「臥龍山荘」の後は、町の中央に向かいします。
途中通るのが「おはなはん通り」です。
北側は商屋の蔵が、そして南側には武家屋敷が並びます。
1966年から放映されたNHKの朝の連続テレビ小説「おはなはん」のロケが行われたことから、今でもこう呼ばれています。
「おはなはん」という愛称で呼ばれる浅尾はなは、松山県立女学校を卒業すると速水中尉との縁談を進められます。
結婚を決めた2人は東京で新婚生活を始めるものの、長男 謙一郎が生まれたときに、日露戦争で出征してしまいます。
戦争も終わり無事に帰って来ますが、今度は弘前へ移ることになります。
そして次の赴任先にドイツ大使館勤務が決定したときに、夫は病で他界してしまいます。
女手一つで子供たちを育てながら、幾多の困難を乗り越えて成長していく姿が感動を呼び、50%を超えるとんでもない高視聴率の番組です。

 それでは昼を頂くことにしましょう。
注文したのは「さつま汁」です。
名前からは野菜がたくさん入った鹿児島の郷土料理を思い浮かべますが、伊予の「さつま汁」はどちらかというと宮崎の「冷や汁」に見た目は似ています。
大きく違うのは「さつま汁」が、魚を材料にしていることです。
魚をすりつぶし焼き味噌と混ぜ合わせます。
それを煮だし汁で溶いて、味を付けたこんにゃくやキュウリを入れます。
汁状の「さつま汁」を白飯の上からかけてます。
ご飯はお茶漬けのように流し込めて、それでいて魚を取ることができる優れものです。
食べやすくて栄養のある食べ物です。

 「大洲歴史探訪館」は、大洲藩と坂本龍馬に関わる資料が展示されています。
昔の蔵を利用した資料館で、自由に入ることができます。

 ここからは「大洲城」を目指します。
その前に「お殿様公園」なるものがあると聞き、寄って見ます。
大洲藩加藤家最後の藩主である加藤泰秋の嫡裔の「旧加藤家住宅主屋」です。
1925年に住居として建てられたもので、映画「男はつらいよ」の撮影でも使われました。
公園内には「大洲城」の三の丸にある南隅櫓もあります。

 最後に訪れたのが、肱川橋からも見えた「大洲城」です。
市民会館の前の道を、上っていきます。
1331年、守護として国入りした宇都宮豊房は「大洲城」を築城します。
大洲は大洲街道と宇和島街道の連結点で、古くから交通の要所となってきました。
また西には八幡浜があり、海からの物資の運搬にも事欠かない場所でした。
子のなかった豊房は宇都宮宗泰を養子に迎え、宇都宮藩政となります。
その後は大野直之が政権を取りますが、豊臣秀吉の意を受けた小早川隆景によって滅ぼされ、小早川隆景が伊予に入封します。
1595年に入城した藤堂高虎は、「大洲城」を城郭として整備します。
これを機会に伊予大洲藩の政治と経済の中心地として、大洲は大きく繁栄していきます。
木蝋や製糸の製造、そして舟運による流通の拠点として大洲が隆盛を極めた時期です。
1617年には伯耆米子から加藤貞泰が入ってき、以後12代に渡って加藤氏が大洲藩主としてこの地を治めることになりました。
現在の「大洲城」は市民らの保護活動と寄付により、2004年に復元を遂げたものです。
戦後復元された木造天守としては、日本初の4層4階で19.15mの高さも最大のものです。

 実は今まで詳しくは知らなかった大洲ですが、来てみて初めてその良さに感動しました。
今も残る江戸から明治の街並み、そしてその中にどっぷり浸かって当たり前のように楽しく生活している人々に感心したのでした。

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