にっぽんの旅 九州 佐賀 佐賀

[旅の日記]

佐賀城と長崎街道 

 九州の中でも来る機会のなかった佐賀を、今回は訪れます。
佐賀駅から見どころは南に広がっています。
まずは、腹ごしらえです。

 長崎と言えば最近耳にするものに「シシリアンライス」があります。
何か怪しげな名前ですが、その「シシリアンライス」を扱っている喫茶店に向かいます。
注文をしてできてたものは、マヨネーズのかかったレタスとトマト、コーンなどのサラダのうえに牛肉がトッピングされています。
食事をしに来たのにサラダ?と思いながら、スプーンでサラダをかき分けてみます。
野菜の下にはご飯があり、甘辛く炒めた牛肉とシャキシャキ感のあるサラダが以外にも合うのです。
最初見た時はちょっと引いてしまったのですが、なかなかいけるものです。

 腹を満たすと、駅前から伸びる通りを「長崎街道」が交差する白山まで向かいます。
この長崎街道沿いに、見どころが詰まっていそうです。
「龍造寺八幡宮」は、佐賀開府の鎮守の神です。
創建は1187年で、元々は龍造寺氏の村中城にあったものを慶長年間の鍋島勝茂による佐賀築城の際にこの地に移転しました。
鎌倉の鶴岡八幡宮の分霊を祀っています。

 「龍造寺八幡宮」の西の長崎街道沿いには、武家屋敷の面影が残っている場所があります。
「豊増家武家屋敷の門」で、個人の家の門になっています。
くぐり戸付きの長屋門で、正面向かって左側に2階建ての番所があり出格子窓が設けられています。
右側は駕籠を納める倉庫になっています。
両開きの門扉の屋根は本瓦入母屋造りで、外壁は板張りの上部が漆喰で固められており、当時の姿を残しています。

 それではここからは長崎街道に沿って、東に向かって移動します。
「旧古賀銀行」は、両替商の古賀善平が1885年に設立した銀行です。
その建物は「旧中村家」として保存されています。
現存する建物は1906年に建設されたものです。
元々は漆喰の外壁でしたが、今見る煉瓦のタイル張りへの変更は、1916年の増築時に行われました。
一時は九州の五大銀行に数えられるまでに栄えた「古賀銀行」ですが、不況により業績が悪化し1926年には休業を余議なくされ、1933年にはついに解散に追い込まれました。
この建物は解散後に佐賀商工会議所、佐賀県労働会館、そして自治労佐賀県本部として利用されてきましたが、1992年に佐賀市の所有となり整備が行われました。
昭和期の改築部分が取り払われ、大正全盛期の姿に復元されました。
いまでは「佐賀市歴史民俗館」として、内部が公開されています。

 その隣には「旧古賀家」が残されています。
巨大な敷地内に、整備された庭と多くな邸宅が残されています。
古賀善平の住宅として1884年に建てられたもので、その後も子の善兵衛、善一郎(二代目善兵衛)が居住しましたが銀行の解散後は古賀氏の手を離れます。
1954年からは料亭として使われていました。
その後佐賀市の所有となり、料亭時代に増改築された部分が建設当初の状態に復元されています。
入母屋造の屋根を備えた旧古賀家は武家屋敷の様式を踏襲しており、約50畳の大広間は圧巻されるものがあります。

 「旧古賀家」の向かいには、創業時の「古賀銀行」社屋となっていた「旧中村家」が現存しています。
白壁の2階建てで、屋根には巾着をあしらった鬼瓦があります。
側面の壁を見ると上半分が白漆喰、下半分は赤レンガが積まれた造りになっています。

 その他にも長崎街道沿いには、大きな家が肩を並べています。
「旧牛島家」は、佐賀城下でも最古の町屋です。
足軽の高楊伊助が居住し問屋業を営んでおり、その後は伊助の店が「煙草仲買商海陸運漕店」として文献で紹介されています。
旧牛島家が住宅、店舗、倉庫と多岐にわたって手掛けていたことがうかがえます。

 「旧三省銀行」は、銀行類似業務を担う「三省社」の店舗として1882年に建てられたものです。
三省社は1885年に正式な銀行となり「三省銀行」と名称を改めますが、次第に経営は行き詰まり1893年には廃業に追い込まれます。
それ以降は医院や住宅として利用されていました。
切妻屋根と漆喰の壁に銅板の扉をもつ窓が備わっています。
中は一般的な畳に襖の部屋と思いきや、奥に進むと2階への吹き抜けや天井に付けられたシャンデリア用の漆喰飾まど、目を引くものばかります。
「旧古賀銀行」「旧古賀家」「旧牛島家」「旧三省銀行」にこれから訪れる「旧福田家」の5館が、「佐賀市歴史民俗館」とされています。

 「旧久富家」は、1921年に履物商を営む久富亀一によって始めた「久富問屋 久富商店」です。
建物裏の作業所で、下駄の製造が行われていました。
後には大分県日田市にも下駄の製造所を設け、朝鮮半島へも販路を広げるなど事業を拡大し、県下有数の履物問屋として成長しました。
店内には「履物問屋」と書かれた木製の看板が掲げられています。

 数々の屋敷が並ぶ長崎街道ですが、その先に「南里邸」はあります。
市内最古の町家建造物で、屋根は切妻の鈎屋です。
2階に座敷をもつ造りで、これは後に増築されたものでこの時屋根も吹き替えられました。
住んでいたのは足軽身分の中嶋彦右衛門で、綿太物や唐物座札をここで商っていました。
間口6間弱の大型町家として、貴重な遺産になっています。

 そんな間に、「畳恵えびす」があります。
この地区はえびす信仰が強かったところで、町を歩くと色々な形をしたえびすさんを見ることができます。
そのなかでもここのえびすは、畳の上に正座をした珍しいえびすさんです。
なるほど、畳屋の店前に作られたえびすさんだからですかね。

 少し南に足を向けましょう。
少し離れたところに「旧福田家」はあります。
明治初期に福田又蔵が土地を獲得し土蔵を新築した土地に、息子で実業家の福田慶四郎が1918年に母屋を建てて暮らしていました。
その後は茶室へ続く廊下が増築された他は大きな改装は行われず、また住居として使用されていた期間が比較的短かったことから、建物も良い状態で維持されています。
近代和風の象徴で、ステンドグラス窓の洋風応接間や数奇屋造の茶室、それに大小の庭など趣がある建物です。

 「旧福田家」の近くにも、武家屋敷の門が残されています。
元鍋島家の家老 水町氏の屋敷門で、多良の名工 託田の番匠の手によって建築されたものと伝えられています。
薬医門で元々は医師の家の門として使われたものですが、後に公家や武家の門としても使われていたものです。

 さらに南に向かってみましょう。
細い通りを曲がったところに「大隈重信記念館」があります。
佐賀が生んだ政治家 大隈重信の住居に資料館が併設されています。
1838年に佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれた大隈八太郎は、7歳で藩校弘道館に入学し朱子学の儒教教育を受けますが、これに反発し藩校の改革を訴えます。
その後の弘道館の南北騒動をきっかけに退学となりますが、枝吉神陽から国学を学び枝吉が結成した尊皇派の「義祭同盟」に副島種臣、江藤新平らとともに参加します。
そして蘭学寮を合併した弘道館教授に着任します。
1865年には長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「致遠館」で、副島種臣とともに指導にあたります。
この時英学を学んだフルベッキから新約聖書やアメリカ独立宣言を知り、大きく影響を受けます。
次第に尊王派として活動し出し、徳川慶喜に大政奉還を勧めることを計画していたのもこのころです。

 旧500円札で有名な重信ですが、明治に入り新政府の設立にあたり数々の偉業を成し遂げています。
政治の表舞台に顔を出すようになった大隈は名を重信に改め、海外の強国に飲み込まれないように国内の改革を強引に進めていきます。
富岡製糸場の設立、鉄道の創設、太陽暦の採用、早稲田大学の創設など、あらゆることに手を付けていきます。
それが反発を食うことも少なくなく、1889年の国家主義組織玄洋社 来島恒喜に襲撃(大隈重信遭難事件)では、右脚を失います。
重信の義足が「大隈重信記念館」では、展示されています。

 ここからは「佐賀城」に向けて歩きます。
その途中に、洋館が現れます。
「さがレトロ館」で、1887年に建設された警察部庁舎です。
アーチ型の窓と高い天井は、当時としては最先端のモダンな建物でした。
現在はレストランとして利用されています。

 さて「佐賀城」は、巨大な鯱の門から入っていきます。
平安時代末期に藤原季喜が龍造寺村の領主になり、その子が龍造寺氏と称し居城としていたのが「佐賀龍造寺城(別名 村中城)」です。
1584年には龍造寺隆信はが島津・有馬連合軍に敗れて戦死し、龍造寺家臣の鍋島直茂が実権を握ります。
その後江戸幕府政に佐賀藩主と認められた直茂は、早速村中城の改修にかかります。
1611年に鍋島勝茂が完成させた城が「佐賀城」なのです。
外観は4重屋根ながら内部は5階建ての造りであったとされています。
しばらく続いた鍋島政権も1874年に江藤新平が中心となって起こした「佐賀の乱」で、「佐賀城」は大半を失い反乱軍に占拠されました。

 現在は敷地内に本丸が再現され、「佐賀城本丸資料館」として公開されています。
幕末維新期の佐賀を中心に、佐賀の歴史が紹介されています。
江戸末期の長崎の出島の警備として、福岡藩とともに佐賀藩が任務に就きます。
ところがイギリスのフリゲート艦が長崎へ侵入してオランダ商館の引渡しを要求するフェートン号事件で、強国からの攻撃に備えることを感じ幕府に長崎への大砲の配置を進言します。
しかし幕府からの回答は乗り気でなく、佐賀藩は独力で軍備を整備することになります。
まずは自前で大砲の製造をするが急務となります。
製鉄のための反射炉としては韮山や萩、那珂湊などのものが有名ですが、実はそれより前に佐賀藩では反射炉に取り組みます。
各地の反射炉の建設にあたっては、佐賀藩が技術援助を行ってきました。
軍事強化の要となる造船のために、「三重津海軍所」を建設します。
こうして佐賀は急激な近代化を進めてきたのです。

 ここから再び佐賀駅に戻っていきましょう。
「市村記念体育館」は、かつて「幕末維新記念館」だったところです。
そこから城の堀を挟んで「徴古館」があります。
鍋島家12代当主 直映公により1927年に創設された佐賀県初の博物館です。
鍋島家伝来の歴史資料や美術品を展示しています。

 また珍しいものとしては「佐賀バルーンミュージアム」があります。
佐賀では毎年バルーンフェスタが嘉瀬川河川敷行われ、多くの気球が集まります。
熱気球の競技が行われ、アジア最大級のイベントなのです。
「佐賀バルーンミュージアム」では、その気球が浮上する原理と競技の様子が説明されています。

 さて今宵は、少しグロテスクな食べ物に挑戦します。
有明海で有名なハゼ科のムツゴロウですが、潮が引いた干潟で飛び回ることで有名なものです。
口が大きく目を大きく開いたとぼけた表情が特徴ですが、泥まみれでどちらかというと汚らしい魚に思えます。
そんなムツゴロウを食べることができると聞いてやってきました。
全身が真っ黒の「ムツゴロウの蒲焼」です。
まあ、刺身よりは口に入りやすいでしょうが、とてもおいしそうには見えません。
ウナギよりも旨いとのネットでの書込みを見たことがあります、実際食べてみるとそれほどでもないというのが率直な感想でした。

 
旅の写真館(1) (2)