にっぽんの旅 九州 佐賀 伊万里

[旅の日記]

伊万里と大川内山 

 本日は佐賀県の伊万里に来ています。
伊万里焼で有名な焼き物の町です。

 松浦鉄道とJR唐津線の終着駅となる町です。
両者をつないでもよさそうなものですが道で分断されており、道の東側にJR、西側に松浦鉄道が道路を挟んで線路が互いに向かい合っています。
駅を降りると、町の至る所が焼き物で埋め尽くされています。

 そして駅前には、森永製菓の創設者である森永太一郎の銅像があります。
伊万里で一番の陶器問屋だった森永家でしたが父の代には家勢も衰え、6歳の時に父を亡くした太一郎は親類の家を転々とする幼少時代を過ごします。
その後伯父の山崎文左衛門に引き取られ、山崎姓になって商人の心構えを教え込まれます。
本屋の店員、野菜の行商人、伊万里焼の問屋を経て、19歳で横浜の合資会社有田屋で働くことになります。
結婚後に勤めた九谷焼を扱う陶器問屋道谷商店ですが倒産したことで、債権者への返済のために店の商品を海外で販売するために24歳の1888年に渡米します。
事業は失敗に終わりますが、ここで西洋菓子の製造に目を付けます。
しかし人種差別に会い菓子工場の仕事は見つからず、クリスチャンの老夫婦にお世話になります。
これがきっかけでキリスト教に洗礼を受けることになります。
しかし一時帰国した際に、異教に入信したことを知った叔父に勘当され再び森永姓に戻ります。
失意の底の太一郎は3か月後には西洋菓子製法の習得を目指して再び渡米し、ジョンソン・ホームベーカリーの雑用係を経験した後、オークランドのキャンディー工場「ブルーニング社」の掃除係として入社します。
多くの人種差別に会いながらもここで西洋菓子の製法を身に付け、日本に戻ることになります。
この時にブルーニング夫妻から受けた助言の「小売りをせず、卸だけやれば家賃の安い辺鄙な所でも済む」がもとで、1899年に赤坂で興した森永西洋菓子製造所です。
最初はマシュマロを製造していましたが後にキャラメルが主力製品となり、今の森永製菓を築いています。

 また伊万里湾はカブトガニの繁殖地でもあります。
駅前には、それを記す石碑も建っています。

 それでは壁土蔵造が当時を思い出させる「伊万里市陶器商家資料館」を訪れてみましょう。
途中の通りの両側に、陶器で造られた等身大の美人の像が迎えてくれます。
その先を進んでいきます。

 「伊万里市陶器商家資料館」は、陶器商で活躍した犬塚家の商家です。
間口は三間(5.5m)しかなく、いわゆる「うなぎの寝床」のように奥に細長い建物をしています。
陶器販売の客人を招き宿泊させたところで、階段箪笥を使って2階の客室に上がることができます。
今は埋め立てられて当時とは風景が異なりますが、窓からは目の前に伊万里津の海と船を臨むことができました。

 その隣には「海のシルクロード館」があります。
こちらも壁土蔵造の建物で、当時の伊万里は陶器の積み出しで栄えており「千軒在所」と呼ばれるほど白壁土蔵が建ち並んでいました。
江戸時代に活躍した陶器商人の暮らしぶりがうかがえる資料館で、2階は古伊万里の展示、1階では陶磁器の販売を行っています。

 それではここからは、伊万里川に架かる3つの橋を見ていきましょう。
最初の「相生橋」の前には、伊万里津を描いたからくり人形「万里音の鐘」があります。
ただし今は人形は動いておらず、時を告げる音楽だけが流れています。
一方の「相生橋」には、欄干の上に立派な伊万里焼の壺が備えられています。
焼き物の里だけあって、陶磁器を街中にふんだんに使っています。

 伊万里川の南に沿って走る観音通りを東方向に歩いて行きます。
名前の通り「仲町観音」があります。
陶器を買い付けに来た商人が、商品がうまくできるように観音様にお願いをしたのが、この観音さんです。

 2つ目の橋は「延命橋」です。
ここには「伊万里色絵瓢箪鯰唐子像」があります。
捉えごとのないたとえとして使われる「瓢箪で鯰を押さえる」の言葉通りの陶器で焼かれた像です。
歌舞伎の舞踊にも取り入れられるなど、庶民にも親しまれてきました。
橋の対岸には座っている唐子を描いた「古伊万里色絵瓢箪鯰唐子座像」のあります。

 それでは橋の由来にもなった「延命地蔵」を見に行きましょう。
この橋の袂に1体のお地蔵さんが流れ着きました。
地元の人々が救い上げ、1788年にここに祀ったことが始まりです。
当初は黒尾橋(旧延命橋)の袂にあったのですが、総檜造りで立派なこのお堂に安置し直しました。
子供の唯一の川遊びの場である伊万里川で犠牲になった霊を慰め、水難から子どもたちを救うために祀られています。

 3つ目の橋が「幸橋」です。
橋の中央には、陶器の夫婦鶏が飾られています。
渡ると幸せになると言われる橋です。
先の「相生橋」「延命橋」とこの「幸橋」の3つを合わせて、縁起橋と呼ばれています。

 橋の北側には「伊万里神社」があります。
香橘(こうきつ)神社、戸渡嶋(ととしま)神社、岩栗神社の3社が合祀され、1962年に伊万里神社になりました。
旧戸渡嶋神社や岩栗神社の鳥居も境内に残されています。
またこの辺りは、かつての「伊万里城」があった場所です。

 「伊万里神社」から「幸橋」を渡り南に下りたところに「前田家住宅」があります。
屋号を「櫛屋」といい、伊万里郷の庄屋を束ねる大庄屋を勤めていました。
母屋は1847年に建てられたもので、寄棟造2階建てで佐賀県内では最大級のものです。
茅葺屋根で、佐賀平野でよく見られる直角に曲がった配置をした「くど造り」をしています。
敷地にはいくつかの蔵や薪小屋もあり、こちらは明治時代に建てられたものです。
陽も陰ってきましたので、この日はホテルに入ることにします。

 さて翌朝は、窯元を訪れることにします。
目指す大川内山は、伊万里駅から山手に入ったところにある山奥の場所です。
幕府に献上するための器を作っていた有田に代わり、より機密性の強い大川内山に場所を変えたのです。
バスで15分ほどのところに大川内山はありました。

 バスの終点では、その手前に番所があります。
「伊万里の関所」と呼ばれるこの番所では、人の出入りを厳しく取り締まりました。
陶器の製造技術は極秘中の極秘で、その意味もあって有田からこの大川内山に移ってきました。
通りの両側に番所を示す柱が建っています。
番所まで歩いて行くと、その不要となった陶器が敷き詰められています。
無数の皿や器の底で、足元は白くなっています。

 川に「唐工橋」が架かっていますので、渡ってみましょう。
そこには巨大なししおどしがあり、3つのししおどしが互いにコトンコトンと水を流しています。
繰り返しの動きですが、何故か見入ってしまいます。
後ろを振り向くと、そこには風鈴が飾られています。
一般の風鈴より少し大きめのものが並んでいます。
伊万里焼の心地よい音色が響きます。

 それではこの地区に広がる窯元を巡ってみましょう。
番所を出て歩いて行くと、橋が架かっています。
「鍋島藩窯橋」で、橋の欄干に伊万里焼の陶板がはめ込まれています。
そして白磁に青の染付けを基本として青や赤、緑の美しい絵付けがされた色鍋島の壷が飾られています。

 橋を渡ったところにある「伊万里鍋島焼会館」は、伊万里焼を展示販売しています。
そこにある案内板に特徴があります。
背丈を越える大きな案内板ですが、これも伊万里焼です。
ひとつひとつをよくここまで細かく描ききれたもので、感心されられます。

 大川内山の家々には細い路地が走っています。
窯元が軒を並べる「鍋島藩窯坂」を上って行きます。
その家の屋根に見えるのが、レンガを積んで造られた煙突です。
煙突をあちらこちらに目にしますが、これこそが窯元である証拠です。

 大川内山の町中には、多くの煙突が建っています。
レンガを積んで造った窯元の煙突です。
「富永窯」「青山窯」「長春窯」「大五郎窯」をはじめとする数々の窯元が軒を並べています。
立ち寄って並べられている陶器を眺めるだけでもおもしろいものです。

 「清正公堂」の看板がありますので、なんとなく引かれて行ってみます。
18世紀中ごろに陶工達が加藤清正公を祀るために建てたお堂です。
窯出入りの際の祈祷所で、現在は大川内山の日蓮宗信者の聖地となっているそうです。
そしてお堂の前には、イチョウの大木があります。
地面には落葉したイチョウの葉が積もり、黄色い落ち葉のじゅうたんを作っています。

 坂を上り切ったとこに「トンバイ橋」があります。
両側の川岸に伊万里焼が埋め込まれています。
橋を渡るとその先は展望台のある「展望公園」への登り坂になっています。
展望台からは、煙突がそびえる大川内山の町を見渡すことができます。

 再び「トンバイ橋」を渡り切ったところまで戻り、川の東側の坂を進みます。
ここにも伊万里焼で飾られた橋があります。
ここは「天神橋」です。
飾りのない地元の人が通常で使う橋といったところでしょうか。

 その先に「お経石窯跡」というものがあります。
13の窯室から成る連房式の登り窯で、今に残る貴重な窯跡です。
窯全体の長さは47mで、10度から12度の上り勾配をもちます。
この窯跡から多くの陶磁器片が発見されました。
この窯が使用された時期は鍋島藩が御用窯を開いた時期と重なり、そのための陶磁器を焼いていたことだと思われます。

 また窯元の煙突が見えるということは、実際に使われている登り窯があるはずです。
歩いていると、案の定その登り窯を見ることができました。
窯は火を入れていませんでしたが、明らかに現役の窯です。
窯の天井には神に祈りをささげる飾りが備えられていました。

 大川内山も大体見終えて、最後に訪れたのは「伊万里・有田焼伝統産業会館」です。
伊万里焼の博物館で、色付によって3種類の伊万里焼があること、伊万里焼は将軍や朝廷への献上品であったことなどが詳しく説明されています。
もちろん古伊万里、伊万里を陳列しています。

 帰りのバスは「伊万里・有田焼伝統産業会館」の前から出発します。
再び15分かけて伊万里の町中に帰ったのでした。

 
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