にっぽんの旅 九州 大分 中津

[旅の日記]

中津のからあげ 

 大分県の中津に来ています。
本日は福岡県との県境の町、中津を散策することにします。

 中津駅前には、この地が生んだ「福沢諭吉像」があります。
中津は大分県では大分市、別府市に次いで人口が3番目に多い都市です。
また古くは旧豊前国に位置し、福岡県との結び付きも強いところです。
その中津の駅前には、「中津城」の城下町として城の防御のために東側外堀に沿って築かれた寺町があります。

 少し歩くと赤レンガの建物があります。
ここは「リルドリーム」で、音楽や演芸の会場として利用でき文化交流の場になっています。

 その先に、いよいよ寺町が広がっています。
「宝蓮坊」「松厳寺」と寺院が続きます。
「宝蓮坊」は細川忠興が中津城に入封した際に、行橋 浄喜寺の村上良慶を連れてきて1600年に「中津浄喜寺」を開基させます。
後に「中津浄喜寺」は「宝蓮坊」に改称することになります。
一方の「松厳寺」は、中津藩奥平家4代の奥平昌章が実父の菩提を弔うために1678年に栃木県宇都宮市に建立された寺院です。
1717年の奥平氏の中津への転封に伴い、この地に移転されたものです。
1734年の中津大火で焼失してしまいますが、現在の本堂は1828年に再建されたものです。

 「松厳寺」の隣には、赤壁が目を惹く「合元寺」があります。
この赤壁には、悲しい歴史が残っているのです。

 歴史は1587年の黒田官兵衛(孝高)の肥後出兵にさかのぼります。
当時、中津を収めていた官兵衛が肥後に出向いた隙をついて、豪族の如法寺久信が反乱を起こします。
留守を預かっていた官兵衛の嫡男 黒田長政は、何とか鎮圧し難を逃れます。
しかし官兵衛に明け渡していた城井谷城を奪還すべく、宇都宮鎮房までもが攻め入り城井谷城は宇都宮鎮房に奪い返されてしまったのです。
城井谷城を失った官兵衛は、急遽戻ってきて馬ヶ岳城に兵を置きます。
黒田長政は再び城井谷城を手にするために、兵を挙げます。
ところが急峻な地形の城井谷城を攻め落とすのは容易でなく、兵を出しながら勝利を勝ち取れずに黒田長政は大失態を起こしてしまいます。
正当法では勝ち目がないと判断した官兵衛は、城井谷城に通じる道を封鎖して兵糧攻めを行います。
その効果があって、やがて城内では食糧も底をつき、鎮房の城兵が逃亡するほどにもなっていました。
これを契機に早川隆景が仲裁に入り、鎮房は娘の鶴姫と息子の朝房を人質と出すことを条件に官兵衛との和議が結ばれました。
その後の1588年には、官兵衛は居城をこれまでの馬ヶ岳城から平野で町の発展が望める中津城へと移します。

 話はここで終わることはありませんでした。
黒田長政の宇都宮鎮房に対する憎悪の念は、これだけでは収まりませんでした。
官兵衛が再び肥後へ出向いた際に、長政は鎮房を中津城に招きます。
子供を人質に出して和議を結んでおきながら中津城に挨拶にすら来なかった鎮房が、この時ばかりは応じたのです。
しかし200人もの家臣を連れての入城でした。
長政は口巧みに「合元寺」に家臣達を待機させ、鎮房だけを中津城に招き入れることに成功したのです。
そしてその場で鎮房を斬りつけ殺害してしまいます。
これに怒ったのが「合元寺」に居た家臣達です。
長政は兵を出し抑え込みますが、この時の戦いで「合元寺」の白壁は血に染まり、白壁に塗り替えても血痕が消えないために今の深紅の壁が塗られたとされています。
その後人質となっていた宇都宮朝房は殺害され、自殺を試みた宇都宮鶴姫は官兵衛に助けられ人質から解放されたのでした。

 寺町は「明蓮寺」「本佛寺」「本傳寺」と続きます。
その先の「円応寺」は、黒田官兵衛の開基 真誉見道上人が1587年に開山した寺で、歴代藩主の黒田、細川、小笠原に大切にされたところです。
黒田二十四騎のひとりである野村太郎兵衛も、ここで葬られています。
そして「円応寺」には、河童伝説が伝わっています。

 「円応寺」に居た寂玄上人が、相撲をとっている河童たちに出会います。
河童たちは寂玄上人から後世を助けるための教えを乞うために、寺に集まります。
上人は河童たちに念仏のありがたさを教え、河童の親分3匹に法名を授けます。
それに喜んだ河童たちは、お礼として一族から3匹を選び昼夜を問わず寺を守りたいと申し出ます。
その代りに寺に河童の住居となる小池を掘ってもらいます。
上人は巽の方角に池を堀り柳を植えて、河童たちを受け入れます。
隣の「本傳寺」より火災が起こった際も、「円応寺」は何故か屋根に水を湛え、類焼することはなかったのです。
境内には、河童の墓と池の跡が残っています。

 「円応寺」の向かいには「圓龍寺」があります。
小笠原長次が播州龍野から中津に入封した1632年に専誉上人を開山として開基した寺です。
閻魔堂があり、そこには恐ろしい顔をした閻魔さんがにらみを利かしています。

 ここで路地に逸れて、進みます。
その先には「大江医家史料館」があります。
中津藩御典医の大江家にまつわる資料が、展示されています。
資料館には「解体新書」をはじめ、蘭学関係の貴重な資料が収集、展示されています。

 さて元来た寺町の通りまで戻り、そこには「西蓮寺」があります。
1583年に光心師によって開山された寺院です。
光心師は黒田官兵衛の末弟で、父の黒田美濃守職隆の逝去時に出家し、官兵衛が播州から中津へ入国の際にともに中津に入り「西蓮寺」を建立したのです。
黒田家ゆかりの寺として、以降400年以上に渡ってこの地で法灯を伝えています。

 さらに北に進んで行きます。
と、そこに観光バスが停まれるような広い駐車場がひらけます。
そう駐車場の先には「福澤諭吉旧居」があります。
摂津国大坂堂島浜の豊前国中津藩の蔵屋敷で1835年に、下級藩士 福澤百助の次男として生まれました。
百助は、鴻池や加島屋などの大坂の商人を相手に藩の勘定方としての職に就いていました。
父の死去により、1836年には大坂を離れて帰藩し、中津に戻ります。
一般的な武家の子弟とは違い、神仏崇拝をすることもなく悪童まがいの人物でした。
5歳になると、服部五郎兵衛から漢学と一刀流の手解きを受けることになります。
勉強嫌いの少年でしたが、15歳を過ぎたころからはめきめきと力をつけ、その実力を発揮することとなります。
1854年の19歳の時には長崎へ遊学して、蘭学を学びます。
おりしも黒船来航により砲術の需要が高まり、オランダ語の書物を読む必要に迫られたのです。
諭吉は長崎奉行の役人で砲術家の山本物次郎宅に居候し、オランダ通詞のもとへ通ってオランダ語を学びました。
その傍ら山本家に保管されていた砲術関係の書物を読み、鉄砲の設計図を描くことができるようになっていました。
交友関係も広まり、黒船に乗船したことのある菊池富太郎から、多くの知識を吸収していきました。

 ところが諭吉を山本家を紹介した奥平家との不和から、1855年に中津に戻されようとします。
諭吉は中津ではなく大坂の中津藩蔵屋敷に務めていた兄を頼って、大坂で過ごすことを決心します。
ここで蘭学者 緒方洪庵の適塾で学ぶことになります。
いよいよ時代は幕末の1858年、諭吉にも中津藩から江戸出府を命じられることになります。
当時の世界は大英帝国が牛耳っており英語の必要性を強く感じた諭吉は、英蘭辞書を頼りに独学で英語の勉強を始めます。
1859年には日米修好通商条約の批准交換のために使節団が米軍艦ポーハタン号で渡米することに伴い、その護衛として咸臨丸に乗り込むことになります。
1861年には文久遣欧使節の通訳のために、英艦オーディン号で欧州各国を回ることになります。
激動の世は明治維新に突入し、1868年には蘭学塾を慶應義塾と名付けて教育活動に専念することになります。
慶應義塾に大学部を設置し、一貫教育の体制を確立したは1890年のことでした。

 「福澤諭吉旧居」から「日霊神社」を越え、中津川縁にあるのが「中津城」です。
堀には海水が引き込まれ、今治城・高松城と並ぶ日本三大水城のひとつに数えられています。
1588年の黒田官兵衛による築城から、1717年には奥平昌成が10万石で入封して以降は奥平藩政が長く続くことになります。

 三河山間部の小豪族に過ぎなかっ奥平家2代目の奥平貞昌は、長篠設楽原の戦いで織田・徳川連合軍として参戦し、武田軍を壊滅に追いやった張本人でした。
この時の成果を信長から評価され、「信」の文字をもらって名前を奥平信昌に改めます。
さらには徳川家康の長女である亀姫をめとり、徳川幕府創設に貢献しました。
こうして奥平家は、徳川御連枝として譜代の名門の地位を確固たるものにしたのでした。
1717年の奥平家7代奥平昌成の中津への入封は、8代将軍徳川吉宗公から西国の抑えを期待された現れだったのです。

 奥平家15代昌邁まで続いた奥平藩政ですが、1871年の廃藩置県で御殿を除いて取り壊されてしまいます。
1877年の西南戦争では、その御殿も焼失してしまいました。
平成に入って「中津城」は、一度は売りに出されたことがありました。
その情報が入り購入していれば、今は城主になって天守で寝起きをしていたかも知れなかったのに、残念です。

 「中津城」の入り口には奥平昌成を祀る「奥平神社」、そしてその横には豊前の国のお伊勢様とされる「中津大神社」、宇都宮鎮房を祀った「城井神社」、合元寺での事件で命を落とした宇都宮家臣を祀った「扇城神社」、そして「中津神社」が並びます。
「中津城」を出て、中津市立南部小学校には「生田門」があります。
江戸時代のこの辺りは、藩主の一族や家老などの屋敷が立ち並んでいました。
奥平中津藩家老の生田家の「大手屋敷」がここにあり、廃藩置県でこの地には英学校である「中津市学校」が建設されます。
生田家の門は残され、「中津市学校」の正門として使われることになりました。
「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」で有名な福沢諭吉の「学問のすすめ」は、「中津市学校」創設時に学問の重要性を説くために書かれたものです。
学校の規則は「慶應義塾」の規則に従って定められ、教員も「慶應義塾」から多数派遣されたのでした。

 中津駅方向に戻りましょう。
途中の「中津市歴史民俗資料館」では、現在に至るまでの中津の暮らしぶりが紹介されています。
もともとこの地は小幡篤次郎の生誕地で、「慶応義塾」では福澤諭吉に次いで尊敬を集めた人物です。
篤次郎の言により、1909年にここに「小幡記念図書館」が建設されました。
その後1938年 に建て替えられますが、それでも手狭になったことから図書館は斜め向かいの新館に移り、この建物は資料館として再生されたのです。
資料館外の敷地内では、江戸時代に城下に引かれた上水道「御水道」を復元展示されています。

 さて最後に立ち寄ったのは「村上医家史料館」です。
中津での蘭学は前野良澤に始まり、福澤諭吉の頃まで続きました。
前野良澤は、杉田玄白や中川淳庵らとともに、江戸小塚原で解剖を見学した後に、良澤も住まいで 「ターヘル・アナトミア」の翻訳に着手します。
1774年には翻訳が終わり、それをまとめた「解体新書」が刊行されます。

先ほど見てきた「大江医家史料館」もそのひとつです。
家の中には手術のための資料や薬瓶、手術道具が展示されています。

 本日の締めは、「中津からあげ」です。
からあげが有名な中津だけあって、駅前には多くのからあげ屋が店を構えています。
昼間はからあげの定食屋も、夜には酒を置く居酒屋になっており一品料理となっています。
店に入り、さっそくビールとからあげを注文します。
お通しのたまご豆腐に遅れること数分で出てきたのがからあげです。
思った以上の量が盛られています。
鶏本来のしっかりした味が出ており、ビールにも合います。
こうして中津の夜は更けて行ったのでした。

 黒田官兵衛ゆかりの地、そして蘭学が盛んな学問の地である中津だったのです。
からあげが旨いことも、忘れてはならないですね。

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