にっぽんの旅 九州 大分 日田

[旅の日記]

天領まちの日田 

 前から行ってみたかった場所があります。
大分県の日田で、筑後川沿いの内陸にあります。

 福岡県の久留米から、久大本線に揺られて約1時間の場所です。
目新しい駅舎の前には、ロータリーが広がっています。
その脇にあるのが、アニメ「進撃の巨人」の像です。
折しも観光に来ていた中国人が、大喜びで横に並んで写真を撮っています。

 まずはお腹を満たすことにします。
駅前にある食堂に入り、こちらの名物でもある「鮎寿司」を頼みます。
市を流れる三隈川で捕れる鮎を開いたものが、シャリの上に乗って出てきます。
「鮎寿司」を食べながら周りを眺めていると、ほとんどの客が頼むものがあります。
皆一様にちゃんぽんを注文しています。
これは食べない訳にはいきません。
「日田ちゃんぽん」と呼ばれるご当地ちゃんぽんで、丼には山盛りの野菜が乗っていません。
さっと火を通しパリパリの野菜の食感を残して、済んだ色の汁に麺が浸かっています。
これは誰もが頼むのもうなずける一品です。

 さてここからは豆田町まで歩いていきます。
駅の北側1kmのところに、その町はあります。
その城は852年にさかのぼります。
鬼蔵大夫永弘が創建した城で、花月川に面した慈眼山上の山城でした。
中世から近世初頭にかけては、大蔵日田氏や大友日田氏が居館していた日田城です。
17世紀初頭に城下町として整備されたこの一帯は丸山町と呼ばれていました。
ところが1639年に幕府の直轄地として天領となり、そのことから今の豆田町と呼ばれるようになります。
日田御役所(日田陣屋)が置かれ、それを中心に町人の町が発展していきます。
そんな豆田町には、古い建物が残されています。

 「深見酒舗」辺りから、豆田の街並みが始まります。
小さな川に架かる橋を渡ります。
ここから左に曲がり1本地の西に走る通りに出ます。
その途中にあるのが、「廣瀬資料館」です。
ここは、咸宜園を開いた儒学者 廣瀬淡窓の生家です。
廣瀬家第4代の月化から、代官所出入りの用達になりました。
第6代になると家業を継ぐべき長男の淡窓ですが、身体が弱く学業に進むことを決意します。
代わりに家を継いだのが弟の久兵衛です。
掛屋(今で言う金融業)になり代官所の年貢米や公金などを取り扱うことを許され、この時期が廣瀬家でも最も栄えた時期です。
一方淡窓のもとには全国から門徒が集まり、その中には大村益次郎や高野長英など明治維新の担い手や、日本の近代化に活躍した人物もいます。
このように成功した廣瀬家ですが、華やかさを慎む家訓に従い外壁にも飾りつけをすることもなく実に簡素なものでした。
商家としての廣瀬家には、当時久兵衛が使っていたそろばんやすずりが展示されています。

 西の通りを南下すると、そこには「草野本家」が残っています。
筑後国の領主であったり草野家は、その子孫が筑後国在国司、押領司に任じられ竹井城主となります。
ところが九州征伐の時に落城し、一族は九州各地に離散しその一部が日田に逃れて移り住んだとされています。
江戸後期には郡代御用達の掛屋を務めるほか、治水などの公益事業にも力を尽くました。
この草野家住宅は江戸時代元禄に創建されて、それ以来明治中期まで増改築を繰り返された建物です。
8代目忠右衛門は、廣瀬淡窓とも親交のあったと記されています。

 「草野本家」と通りを挟んだ建物も年季が入っています。
嘉永から天保年間に作られた建物が並びます。
そして修復をしながらですが、いまでも使われていることに驚かされます。

 その通りを北に向かって進みます。
豆田町に現存する建物は、どこも古いものを大切に使い続けています。
右手に現れた洋館は、「旧古賀医院」です。
中に入ると、当時の診察台が残されています。
いまは「豆田まちづくり歴史交流館」として使われており、建物の保存工事の様子やなどが展示されています。

 その先には「草野薬局」があります。
昭和に入ってから(1934年)の建設ですが、この町の中では新しく見えます。
壁に貼られている「金鳥かとりせんこう」の看板が、懐かしさを漂わせています。

 「草野薬局」の角を入ったところに、「旧船津歯科」があります。
3階建ての洋館ですが、屋根には瓦が敷かれています。
大正時代(1914年)の建物です。
2階に歯医者の受付、待合室、診察室があり、そのまま残されています。
ここも「豆田まちづくり歴史交流館」として利用されています。

 蕎麦屋が入っている建物は、2階の窓に特徴があります。
和風の建物であるにも関わらず、どこか新しい感じがします。
しかしここも明治時代(1882年)のものです。

 さらに北に進むと「花月川」に当たります。
「御幸橋」です。
この北には「永山城跡」があります。
また川に対して1筋東には「一新橋」があります。

 「一新橋」の脇にあるのが、「薫長(クンチョウ)酒造」です。
正面には巨大な杉玉が飾られています。
この杉玉と言い、奥に見える煉瓦造りの煙突と言い、大きな酒蔵である証です。
屋号を丸屋と称した掛屋でした。
千原家で、後に手掛けた事業のひとつが酒造業だったのです。
福岡県の城島町で酒造業を営んでいた冨安本家酒造の分家として1829年に創業したのが、この「薫長酒造」です。
敷地の中には酒蔵資料館も併設されており、酒造りに必要な木桶などが展示されています。

 その南に歩いたところには「岩尾薬舗 日本丸館」があります。
1855年に建てられた3階建ての木造建築です。
建て増しが繰り返された強大な建物ですが、その増築のために内部はちょっとした迷路のようになっています。
明治から昭和にかけて製造された万能薬「日本丸」の資料館になっており、公開されています。

 「天領日田はきもの資料館」では、巨大な下駄が飾られています。
下駄工場に併設された直売所で、店舗には手ごろなものから目の飛び出るような高価なものまでが並んでいます。

 豆田町をぐるりと巡り終え、日田駅に戻ります。
日田に来て是非食べたかったものがあります。
それは「日田やきそば」で、ラーメン屋が今晩の食事処です。
餃子をあてにしてビールで流し込みます。
6月なのに30度を越える外の暑さで、ビールがこれほど旨いものはありません。
そして出てきた焼きそばは、いっぱいのモヤシが混ざり、カリカリになるまで焼いた麺の特徴のあるものです。
大分の小京都としての日田を満喫した1日だったのです。
 
旅の写真館