にっぽんの旅 九州 長崎 島原

[旅の日記]

水の湧き出る島原 

 長崎県の島原にやってきました。
熊本港からフェリーに乗り約1時間、目の前には雲仙の眉山がそびえています。
フェリーは島原外港に着き、人と車が一斉に降ります。

 ここから島原駅までは10分程度で、島原外港から出るバスを避け、あえて情緒のあるローカル線である島原鉄道を選びます。
黄色い車体の島原鉄道ですが、このときやってきたのは赤とベージュの急行列車、これも島原鉄道の独自色です。
そして到着した島原駅は、城を思わせるようながっちりとした屋根瓦の建物です。
島原城の大手門をモチーフにした駅舎です。
自動改札ではなく、切符切りのために駅員が立つ木枠で囲まれた改札口です。
改札の外に目をやると、通りの先に「島原城」が見えます。
それでは城に入る前に、その西側に広がる「武家屋敷」に先に寄ります。

 「武家屋敷」までの通りを歩いていると、和風の建物が見えてきます。
「宮崎商店」の酒蔵です。
この辺りは島原街道で賑わった当時の木綿問屋、旅籠や酒造所が所々残されています。
「青い理髪館」は大正時代に洋館ブームで建てられたもので、最近まで実際に理髪店として商売をしていたところです。

「時鐘楼」は、時を知らせるために1675年に松平忠房の命で造られた鐘楼です。
その先の「鉄炮町」に、「武家屋敷」はあります。
造成当時は隣家との間に塀がなく、まるで鉄砲の筒の中を覗くように武家屋敷街が見通せたことから「鉄炮町」と呼ばれるようになりました。
この武家屋敷は島原城の築城とともに、7つの地区の武家屋敷街が形成されました。
そのいちのひとつが、ここ「下の丁」です。
休憩所にもなっている「水神祠」のある敷地を抜けると、中央に水路が流れる広々とした通路に出ます。
いずれの地区の武家屋敷の街路の中央にも、湧水の水路が設けられていました。
この水は飲料水としても利用され、水奉行を置いて厳重に管理されていました。
この両側に繰り広げられる建物が「武家屋敷」で、3軒の屋敷が公開されています。
ここでは「山本邸」、「篠塚邸」、「島田邸」の3件を、順に見て回ることができます。
家の中には当時の様子を伝えるためでしょうが、等身大の人形が置かれておりなんとなく異様な光景です。

 それでは島原に城下町を造る基となった「島原城」を訪れましょう。
この地を治めていた有馬直純が延岡藩に転封になったのと入れ替わりに、松倉重政が「日野江城」に入城して来ました。
そのとき手狭であった「日野江城」に代わって「島原城」の築城を開始します。
そして完成したのが、1624年です。
ところが過重な年貢に飢饉が加わったことで、百姓の不満が爆発します。
そして元々はキリシタン大名であることからキリシタンが多いところに、松倉藩政では藩によるキリシタン迫害が始まります。
キリシタンの不満も加わり、島原では密かに反乱の計画が立てられていました。
同じころ肥後天草でも大量に発生した浪人を中心に、一揆を起こすための組織が作られていました。

   

 そのころキリシタンの間でカリスマ的な人気を得ていた天草四郎(本名は益田四郎時貞)が総大将となり、1637年12月に「島原の乱」が勃発することになります。
この乱が「島原・天草の乱」ともいわれる所以です。
一揆軍は次第に勢力を強め、それに対して幕府も討伐上使として板倉重昌、そして松平信綱と次々と兵を派遣しますが、いずれも乱を治めることができませんでした。
一揆軍は旧主有馬家の居城であり廃城となっていた「原城」を修復し、拠点として戦ってきました。
これに目を付けた幕府は、兵糧攻めで一揆軍を追い詰めていきます。
そして2月27日の総攻撃で「原城」は落城し、天草四郎は討ち取られて乱は鎮圧されました。
残されたキリシタンは、この時を境に隠れキリシタンとして深く潜伏することになるのです。

 天守閣からは、島原の町を見下ろすことができます。
海の高額には、煉瓦造りの煙突も見えています。

 島原の歴史を改めて学んだあとは、この地方に伝わる料理を食べることにします。
「具雑煮」は古くから伝わる郷土料理で、野菜と魚に餅が入った雑煮を食べることができます。
雑煮を正月だけの食べ物にせず、夏のこの時期でも広く食べられるものです。
冷房を効かせた部屋で、グツグツを煮込まれた鍋が食卓に運ばれてきます。
熱いのですが、美味しく腹に溜まる一品です。

 城の近くには昔ながらの商家も残されています。
島原街道沿いにある1877年創業の「猪原金物店」は、金物店としては九州2番目の歴史ある老舗です。
建物自体は1861年のものです。
壁には龍の絵が描かれており、南側は増築されて喫茶店やギャラリーになっています。
島原では至るところで湧き水を見ますが、ここの一角は湧き水を速魚川と名付けた小川に流しています。

 ここからは壱番街アーケードを南に向かって歩いて行きます。
しばらく行くと、足湯を見つけました。
「ゆとろぎの湯」で、すでに先客がいるようです。
歩き疲れたこともあって、これ幸いとおもむろに靴下を脱ぎ始めます。
ところが足を浸けて、その熱さに驚くことになるのです。
とても我慢できる温度ではありません。
あえなく飛び出してしまいました。

 この熱い足湯から西側に少し進んだところに、「清流亭」があります。
観光交流センターになっており、この土地の名産品が土産物として販売されています。
そして「清流亭」から通り沿いに流れる堀には、優雅に錦鯉が泳いでいるのです。
先ほどの足湯でゆっくりできなかった分、鯉を見ながら心を癒されることにします。

 すぐそばの「しまばら湧水館」は、和風の家屋が解放されています。
水が湧き出す庭園を楽しみながらゆったりとした時間を過ごします。
ここは「かんざらし道場」にもなっており、「かんざらし」とは白玉だんごにはちみつを混ぜたシロップを掛けて食べる島原の銘菓です。

 そしてすぐ隣の「四明荘」は、もっと癒される空間です。
水が湧き出す池を庭にもち、池に張り出すように「四明荘」の縁側が建てられています。
池には、3000トン/日が絶えず湧き出している、天然のクーラーです。
縁側では池に向かって足を投げ出し、ゆっくりすることができます。
湧き出す水で水面が揺れ、飽きずにいつまでも見ていることができます。

 それでは面白い寺があるというので、訪れてみます。
「江東寺」は、有馬晴信の弟の宣安明言和尚が1558年に開山した寺院です。
松倉重政はここを自分の菩提寺と定め、庇護してきます。
「島原の乱」ではこの寺も被害に合い、8年後に現在地に建立されました。
この再建を祝って1828年に奉納されたのが、「ねはん図」です。
横たわったお釈迦さまで、バンコクのワット・ポーを思い出させます。
その「ねはん図」を基に造られたのが8.1mの「ねはん像」で、板倉重昌と松倉重政の霊を供養するために建立されたものです。
足の裏には大法輪の相が、刻まれています。

 「江東寺」からさらに西に進むと、そこには「白土湖」があります。
1792年の眉山が崩壊する災害によって、陥没した窪地に多量の地下水が湧出したことによってできた湖です。
湖底には今でも推定日量4万トンの地下水が湧出し続けていると言われています。
横の洗い場では、住民が湧き水を利用して洗濯をする風景を目にすることができます。
なんとのどかな町なのでしょうか。

 このように不幸な過去がありながらも、雲仙の湧き水に恵まれた島原を巡る旅でした。

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