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[旅の日記]

龍馬を追って長崎へ 

 本日は、長崎の町を巡ってみましょう。
とはいえ、まずはお腹を満たします。

 長崎で「ちゃんぽん」とともに有名なのが「皿うどん」です。
うどんと言っても細麺で揚げていますから、パリパリのものです。
それにアンが乗り、アンが浸みたところの麺が良い加減に柔らかくなり食べごろになります。
「皿うどん」は「ちゃんぽん」と同じく中華料理店「四海樓」の陳平順が考案したものです。
店で人気のあった「ちゃんぽん」ですが、出前するには汁が多く苦労します。
そこで配送時にこぼれないよう汁を少なくしたものが、この「皿うどん」なのです。
今では長崎の郷土料理として、確固たる地位を築いています。

 そんな「皿うどん」で腹を満たし、路面電車に乗って「新大工町」電停に向かいます。
この電停の1つ先には「シーボルト記念館」がありますが、こちらは次回改めて行くことにします。
「新大工町」の電停を降りた川沿いに「上野撮影局跡」があります。
有名な坂本龍馬の立った姿の写真を撮った場所なのです。
当時は珍しかったカメラに目を付けた上野彦馬が、1862年に開いた撮影局です。
日本初の天体写真もここで撮られたものです。

 そのあとは鳥居が並ぶ坂を登り「若宮稲荷神社」に向かいます。
楠木正成を守護神とする神社で、大工町の若杉喜三太が自邸に祀っていたものを1673年にこの地に移したことが始まりとされています。
1736年には長崎奉行の細井因幡守安明が、参道を整えます。
明治維新には、坂本龍馬など多くの志士達が参拝したといわれます。

 それでは、ここから坂本龍馬にまつわる場所を順に回りましょう。
さらに階段を登っていきます。
坂の多い長崎とは覚悟してきましたが、上り階段は果てしなく続きます。
夏のこの時期、背中だけではなく顎からも汗がしたたり落ちます。

 ようやく着いたのは、「亀山社中資料展示場」です。
「亀山社中」とは、坂本龍馬が中心となり結成した組織「海援隊」の資金を得るために結成された商社です。
ここで、少し幕末の日本の情勢を思い出してみましょう。
日本の大国への備えとして、それまでは幕府機関である「神戸海軍操練所」で海軍、航海術の教育と海軍士官を養成してきました。
この時の中心人物が、勝海舟でした。
ところが、会津藩・薩摩藩を中心とした公武合体派が、長州藩を主とする尊皇攘夷派と急進派公卿を京都から追放したクーデターが起こります。
これがいわゆる「八月十八日の政変」で、これに失脚した長州藩が京都へ進攻した「禁門の変」の責任を問われたために、勝海舟は「神戸海軍操練所」を罷免されてしまったのです。
海軍の必要性を感じていた竜馬達は、軍艦や鉄砲などの兵器の調達に走ります。
そのために造られた組織が「海援隊」で、貿易会社「亀山社中」を通じて長州藩の軍事強化を行ったのです。
民家のような展示場には、「亀山社中」の写真や手紙が展示されています。

 「亀山社中資料展示場」から少し歩いたところに「竜馬のぶーつ像」があります。
船の舵輪と大きなブーツが並んだ、長崎の町を見下ろす公園です。
竜馬のものと言われるブーツは、靴を履いた足までも入るほどの大きなものです。

 そのそばには「長崎市亀山社中記念館」があります。
「亀山社中」には10畳・8畳・3畳の3つの部屋から成り、10畳座敷の柱には竜馬もよく寄りかかっていたと言われています。
3畳の部屋からは天井裏の隠れ部屋入ることができ、もしもの時に対応できるようになっていました。
坂本龍馬の書簡や竜馬が使った亀山焼の器、それに竜馬の写真が展示されています。

 ここからは下り坂で、寺が並ぶ寺町に出ます。
「興福寺」の朱塗りの山門が鮮やかで、「あか寺」とも呼ばれています。
1624年に中国僧である真円により創建された寺院で、長崎三福寺のひとつに数えられています。

 そこからは、路面電車の走る街中まで坂を降りて行きます。
電車に沿って走る「中島川」には、いくつもの石橋が架かっています。
そのうちのいくつかを見て回ります。
「東新橋」は、1673年に架設された石橋ですが、1721年に流されてしまいます。
その後1800年に付け替えられますが、1982年の長崎大水害で再び流出してしまいます。
現在のものはコンクリート製の橋です。
奥には「芋原橋」も見えています。
「袋橋」は「眼鏡橋」に次ぐ古い石橋と言われていますが、記録がなく詳しいことは判っていません。

 そして今回見に来たのは、長崎を紹介する写真で度々目にする「眼鏡橋」です。
興福寺の唐僧 黙子如定によって1634年に架設された2連の石橋です。
日本最古のアーチ型石橋で、「中島川」に架かる長さは22mの橋です。
水面に映った影が双円形を描くことから「眼鏡橋」と呼ばれています。
1982年の長崎大水害では6橋が流失してしまい、眼鏡橋と桃谷橋、袋橋の3橋だけは流失を免れましたが一部が崩壊し、眼鏡橋は1983年に、桃谷橋、袋橋は1985年に復元されています。
橋のたもとには、「中島川安全安心交流センター」があり、石橋の景観とマッチしています。

 さてここで路面電車に少し乗り、「思案橋」電停まで移動します。
「思案橋」は欄干だけが残されていますが、この先の花街に進むかどうかをここで思案したことにより名付けられました。
それではその花街を訪れてみます。
その前に小腹がすいたので、「豚まん」を購入して食べながら歩きます。
小ぶりの「豚まん」は、肉の脂身が甘くていくつでも食べられそうです。

 花街に行く間に、カステラの「福砂屋」があります。
「文明堂」が全国的に有名ですが、長崎でカステラを始めたのはこの「福砂屋」が初めなのです。
1826年創業の「福砂屋」は、南蛮貿易で知った南蛮菓子に独自の製法を取り入れ、日本独特のカステラを生み出しました。
材料は小麦粉、砂糖、卵の3種類、それに砂糖とともに水飴が加わり今の形と味になっていきました。
そんな「福砂屋」の先の「丸山町交番」も、味のある建物です。

 「史跡料亭 花月」は、この先にあります。
江戸時代にこの辺りは、江戸の吉原、京都の島原とともに天下の三大遊郭とうたわれ栄えた場所です。
明治時代になると、長崎を舞台に活躍した国際人の社交場として活躍します。
そして今では、長崎卓袱料理をここでいただくことができます。
しかし卓袱料理となると、ン万円を下らない高級なものです。
料亭の入り口だけを目に焼き付けておくのでした。

 ここから少し坂を登ったところに「中の茶屋」があります。
遊女屋「中の筑後屋」が江戸時代中期に茶屋を設けていたところで、「千代の宿」とも呼ばれました。
素晴らしい庭園も眺めることができます。
(庭園の見学だけなら、無料で入ることができます)
「清水菎展示館」にもなっており、風刺たっぷりの政治漫画や河童の絵で有名な清水崑の原画を所蔵、展示しています。

 またこの辺りには軒下に赤い提灯が並ぶいくつかの建物を見ることができます。
階段の先にもそういった建物がもうひとつあります。
ここは「料亭 青柳」です。
ここでも卓袱料理を味わうことができますが、それには財布が…
ということで、長崎に来れば食べたかった場所に移動します。

 その食べたかったというものは、茶碗蒸しです。
30年も前に仕事で長崎を訪れたときに、長崎出身の同行者に連れてきてもらったところです。
丼いっぱいの茶碗蒸しが衝撃的だったのです。
いつかまた行こうと思っていたのですが、やっとその時が来たのです。
案の定、店の前は入場待ちの人でいっぱいです。
もちろん注文したのは、茶碗蒸しです。
京都や大阪で始まった茶碗蒸しですが、創業者 吉田宗吉はその味に魅せられて「宗吉」の屋号で店を開きます。
茶碗蒸しだけでなく、魚や卵を乗せた蒸し寿司を添えて出します。
1866年のことでした。
長崎の味となった巨大な茶碗蒸しは、こうして引き継がれてきたのです。

   
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