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[旅の日記]

異国情緒漂う長崎 

 異国情緒漂う長崎、江戸時代の鎖国の時代に唯一貿易が許された長崎には、ポルトガルを初めとする日本とは違った文化が根付いています。
そんなエキゾチックな長崎の町を、今回は巡ってみましょう。

 長崎駅から路面電車の長崎電気軌道で2駅のところに、「文明堂総本店」があります。
1900年に中川安五郎が創業したカステラ屋です。
ポルトガルから伝わった南蛮菓子を日本独自の和菓子に発展させたもので、ここ長崎が発祥の地です。
「カステラ一番、電話は二番、三時のおやつは文明堂」の白黒時代のテレビコマーシャルで、クマのぬいぐるみが舞台で踊っている姿が脳裏に焼き付いています。

 その1駅先に「出島」があります。
1駅といっても路面電車の1駅ですから、見えている範囲内で余裕で歩いて行くことができます。
今でこそ埋め立てられて判らなくなっていますが、面積1.5ヘクタールの海に突き出た扇型の人工島です。
このころの日本は、中国以外の船の入港は長崎と平戸に限って許されていました。
ところが「島原の乱」でみられるようなキリシタンの広がりに危機感を抱いた幕府は、この出島を造りその中にポルトガル人を集めます。
ポルトガル人は、完全に一般社会と断絶されたのです。
出島では、1636年からポルトガル貿易が行なわれます。
当時のポルトガル領マカオには生糸など魅力的な品物も多く、国交断絶には踏み切れずにいました。
そんな折、オランダ商館長のフランソワ・カロンが幕府に訴え、ポルトガルに代わってオランダが貿易相手国に選ばれます。
1641年に平戸のオランダ東インド会社の隣にあったオランダ商館を出島に移し、出島ではオランダ人が居住することになります。
季節風の関係で7月に寄港した船は、4ヶ月間滞在し11月には出港していきます。
遊女以外の出島への出入りは、長崎奉行所から厳しく禁止されました。

 現存の建物を改修し当時の姿を再現途上の出島ですが、いくつかの建物を見て回ることができます。
「一番船船頭部屋」は和風の外形の建物ですが、中に入ると洋式の壁紙やベッドが置かれ、オランダ船船長や商館員の住まいでした。
「石倉」では出島の映画が流れています。
和式ながらも緑のペンキの塗られた手すりをもつ家は、オランダ商館長の「カピタン部屋」です。
奥には大きな洋館が2軒建っています。
そのひとつが「旧長崎内外クラブ」です。
ここは1903年の建物で、長崎に在留する外国人と日本人との社交の場でした。
そしてもうひとつの大きな建物は、「旧出島神学校」で、1878年建造の現存するキリスト教の神学校の中では日本最古のものです。
そのほか、出島と長崎の町を結ぶ表門も、当時は厳しく警備されていたところです。

 それでは長崎の町を、路面電車で移動しましょう。
電停の「大浦天主堂下」駅で降りると、目を引く形の建物があります。
長崎に「ちゃんぽん」を生んだ「四海樓」があります。
福建省福州の出身の陳平順が興した支那うどんが評判を呼び、全国的な料理へと登りつめていきました。
中国からの貧しい留学生のために、安くてボリュームのある食べ物をと考え出されたものです。
ちなみに「四海樓」は、「皿うどん」の発祥の地でもあるのです。
せっかく店の前まで来たのですが、まだお腹はすいていませんので寄らずにそのまま進みます。

 「四海樓」の裏に、大きな建物が見えます。
これは1904年に建造された「旧香港上海銀行長崎支店」で、香港上海銀行長崎支店の歴史と、「中国革命の父」と言われる孫文を支えた長崎出身の実業家 梅屋庄吉を語る記念館になっています。
当時は神戸以西で唯一の外国銀行で、貿易商に対してロンドンや上海、香港との外貨の売買を行っていた特殊為替銀行です。
明治から昭和に生きた建築界の偉才である下田菊太郎の設計で、現存する唯一の遺構です。

 そしてその隣の白壁の建物は、「長崎市べっ甲工芸館」です。
長崎にはいくつものべっ甲屋がありますが、ここでも伝統に培われたべっ甲細工の芸術品の展示を行っています。

 ここからは丘の上にある「グラバー園」に向かい、坂を登っていきます。
坂の途中には「祈りの丘美術館」など、気になるところが続きます。
そして坂の正面に「大浦天主堂」があります。
正式名を「日本二十六聖殉教者堂」と言い、1865年に建立された現存する日本最古のキリスト教建築物です。
これまで弾圧を受けてキリシタンであることを言い出せなかった隠れキリシタンが、ここに集まりプティジャン神父に心の内を打ち明けます。
建立まもないころには、珍しい建物の形に「フランス寺」とも呼ばれていたということです。

 その坂を右手に進むと、「グラバー園」の入り口に着きます。
料金を払い、ここからは丘の上までは「動く歩道」で傾斜を登ってくので、楽々です。
「近代日本発祥の地」とも呼ばれる「グラバー園」には、1859年の長崎開港から長崎に住み着いた市内の歴史的建造物を移築されています。

 「動く歩道」の終点には、正面に池を有する「旧三菱第2ドックハウス」があります。
船が修理のためにドック入りした際に船員が休憩宿泊するための施設で、1896年に建てられたものです。
明治初期の典型的な洋風建築として、保管されています。

 「旧ウォーカー住宅」は、ロバート・ウォーカー・ジュニアの住居です。
イギリス出身の父 ロバート・ウォーカーは、船長をしていました。
ロバート・ウォーカー・ジュニアの兄 ウィルソンも船長をしており、1868年には来日してグラバー商会で働きます。
その後郵便汽船三菱に抜擢されて、上海航路を任されます。
父 ロバート・ウォーカーは1874年に来日し、三菱の系列会社と日本郵船に勤務し船長を務めます。
1894年には家族家族共々長崎へ移り住み、南山手10番地でクリフ・ハウス・ホテルの経営を行います。

そして1898年には「R. N. ウォーカー商会」を設立し、海運業を中心とした貿易事業を幅広く営んでいきます。
ロバート・ウォーカー・ジュニアはこの事業を受け継ぎ、ここ「旧ウォーカー住宅」で過ごしたのです。
その向かいには、「長崎地方裁判所長官舎」もあります。

 日本人初の西洋料理店シェフとなった草野丈吉のレストラン「自由亭」の先を下ったところに、「旧グラバー住宅」はあります。
1859年の鎖国に終わりを告げた際、長崎・横浜・箱館で世界に門戸が開かれます。
安政の大獄直後の1859年に、英国スコットランド出身のトーマス・ブレーク・グラバーは、茶などの産物や武器船舶などを取り扱う商人として長崎で「グラバー商会」を興します。
そして外国人商人としての確固たる地位を築いていきます。
グラバーは産業立国の方針を唱え、造船、炭鉱、水産、鉄鋼、造幣、ビール産業の分野に次々と進出していきます。
1865年には大浦海岸で蒸気機関車を試走させますが、これは日本の鉄道開通の7年もの前のことです。
1868年に開発された「高島炭鉱」も彼の手がけたもののひとつです。
トーマス・グラバーの息子は倉場富三郎と名乗り、三菱重工業株式会社長崎造船所に売却するまでこの家を自宅として利用していました。

 その先にある「旧リンガー住宅」は「グラバー商会」に勤め、1868年には英国人のホームとともに「ホーム・リンガー商会」を設立したフレデリック・リンガーの旧邸です。
石造りの洋風住宅で、平屋で広々とした造りです。
リンガーは製茶、製粉、石油備蓄、発電など幅広く事業活動を手掛け、ウラジオストクを初めとする海外港との貿易や商社の代理業務に携わりました。
捕鯨業や日本初のトロール漁業を倉場富三郎と共に行ってきました。
公共事業にも貢献し、上水道敷設などにも尽力してきたことも世間から認められ、ベルギー・スウェーデン・ノルウェー・デンマークなどの名誉領事にも就任しています。
イングランドのノーリッジへ帰郷中の1907年のリンガーの死後は、この住宅は二男シドニーに受け継がれました。

 「旧オルト住宅」は、「オルト商会」として製茶業を営んでいたウィリアム・ジョン・オルトの旧邸です。
1859年に来日して、1865年から3年間を過ごした場所です。
オルトは、九州一円から茶を買い付け、それを輸出して巨額の利益を得ました。
1903年にはリンガー家の所有となり、フレデリック・リンガーの長男一家が太平洋戦争勃発まで住んでいたところでもあります。

 さらに奥に進むと、木造2階建の洋風建築「旧スチイル記念学校」がひっそりと建っています。
アメリカのダッチ・レフォームド教会の外国伝道局長であったスチイル博士が、18歳で亡くなった息子のウィリアム・ヘンリーを祈念し寄贈した資金で造られたのが、この「旧スチイル記念学校」です。
私立東山学院、明治学院第二中学部東山学院などの変遷の後、「海星学園」とし利用されていたものです。

 見どころ満載の「グラバー園」を見終えた後は、東山手の方向に向かいます。
その途中にある「孔子廊」は、1893年に建てられた孔子の遺品を納めた中国様式の霊廟です。
「中国歴代博物館」も併設されており、霊廟「大成殿」までの通路には72賢人石像が訪問者を迎えてくれます。

 長崎は山に面した斜面に、家々がへばりつくように建てられた町です。
「オランダ坂」は東山手の通りの総称名で、石畳の坂が続きます。
日本が開国し長崎市内に外国人居留地が設定されますが、東山手は市内で最初の居留地です。
そんな「東山手洋風住宅群」には、7件の洋館並んでいます。

 「東山手十二番館」は、明治時代初期に建てられた木造平屋建ての洋館で、現在は「旧居留地私学歴史資料館」となって公開されています。
ロシア領事館として利用されたこの建物の建築主はアメリカ人商人のウォルシュで、その後はアメリカ領事館やメソジスト派宣教師の住宅としても使われてきました。

 さらに北西に向かって歩いて行きましょう。
「唐人屋敷跡」は、道路に造られた大門の奥に当時の党からの人々が暮らしていた一帯です。
鎖国中は明王朝、清王朝ともに日本を倭寇(朝鮮半島から東アジアにかけて出没する海賊)の拠点とみなし、中国人の日本渡航を認めていませんでした。
ところが台湾の鄭氏政権が清国へ屈服したことを境に1684年には撤廃遷界令を撤廃し、中国商船の来航が増えます。
それに伴い密貿易も横行したために、これまでは日本人に混ざって生活していた中国人を分離して集め、彼らの居住地区も制限することになりました。
広さは9400坪の場所に2000人を収容できる「唐人屋敷」は、周囲を塀と堀で囲んで大門の脇には番所が設けられ、この地域への出入りを監視しました。
中には「土神堂」「福建会館」「天后堂」「観音堂」などの建物が残されています。

 さてここまで来れば、「長崎新地中華街」は目と鼻の先です。
福建省出身者を中心とした中国人は「唐人屋敷跡」に集められますが、1698年の大火で中国船の荷蔵が焼失し「唐人屋敷」に近いこの地の海を埋め立てました。
それが「長崎新地中華街」として、今も残っています。
横浜街、神戸南京町とともに日本三大中華街と称されています。
それではここで、「四海樓」で作られ中華街で広まった「ちゃんぽん」を食べることにします。
庶民的な値段で食べることができる具だくさんの「ちゃんぽん」は、野菜や海鮮から出たスープの味も美味しく最後の1滴に至るまで飲み干してしまいます。
そして腹の虫が治まれば、次は中華街を見て回ります。
中国人が経営する雑貨や菓子を物色し、ここでは「月餅」を買って帰ることにします。
かつて上海で食べた栗入りの「月餅」の味が、忘れられなかったからです。
そして、ようやくホテルに戻ることができたのでした。


 鎖国、そしてその後の開国で港町として栄えた長崎のエキゾチックな歴史を感じる町巡りでした。
そしてやはり本場で食べる「ちゃんぽん」は、満足のいく旅になったのでした。

     
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