にっぽんの旅 九州 長崎 上五島

[旅の日記]

上五島の教会群(北部編) 

 五島列島の中通島に来ています。
昨日は中通島の南半分を観て回りましたので、本日はいよいよ北半分です。
有川港からの出発です。

 レンタカーを借りて朝から頭ヶ島(かしらがしま)集落を訪れる予定だったのですが、集落への車の乗り入れが禁止されていることを昨晩知りました。
事前に電話を入れてバスの予約をしなければなりません。
ただ頭ヶ島集落のインフォメーションセンターが開くのは、9:00になってからです。

 その頭ヶ島集落は、今いる有川港から東の方向に位置します。
それとは別に本日訪れたいのは島の北側です。
北側でも奈摩湾を挟んで東側と西側に分かれています。
ところが奈摩湾の東西を結ぶ道路ががけ崩れで寸断されており、本日行こうとしていた奈摩湾の東側の魚目地区と西側の矢堅目地区には同時に行くことができません。
つまり頭ヶ島集落、魚目地区、矢堅目地区の3方向に、有川港を起点としてそれぞれ行く必要があります。
頭ヶ島集落のインフォメーションセンターが開くまでの間、先に奈摩湾西側の矢堅目方向に向かうことにします。

 矢堅目方面では、3つの教会を訪れます。
朝一番に訪れたのは「青方教会」教会です。
1960年代からの近隣からの信徒の集団移転により、青方地区にキリシタンが急増します。
そこで1975年に聖堂が建立されました。
2000年には現在の新しい教会堂に建て替えられています。

 車をさらに走らせましょう。
北に移動すると目指す「冷水教会」があります。
五島崩れで迫害を受けた信徒は、平戸や下五島などから次々とこの冷水に移住してきました。
1907年になってようやく木造教会が建ちました。
多くの教会建設に関与した丸尾郷出身の鉄川与助によるものですが、ここは彼が棟梁となって初めて手掛けた教会でもあります。

 車は元来た「青方教会」まで戻ります。
そしてその近くの「大曽教会」に寄ります。
外海地方の出津、黒崎、池島などから移住してきたキリシタンがここに移り住みました。
1916年に鉄川与助の設計施工でこの教会が建てられました。
当時の教会は若松島の「土井ノ浦教会」として移築されました。
現在の教会はレンガ造りの重層屋根構造で、内部は3廊式のものです。
上五島に来て多くの教会を回っていますが、ここに来て初めて観光バスに遭遇したのでした。

 さてここから「頭ヶ島天主堂」に向けて進むことにします。
懸案であった頭ヶ島集落のインフォメーションセンターにも連絡を取ることができました。
「上五島空港」の駐車場に車を入れて無料バスに乗り換えてくれとのことです。
バスは30分行きに発車していますので、希望の時刻を申請します。
車は中通島から「頭ヶ島大橋」を越えて、頭ヶ島に入ります。
橋の下は波立ち、かなり激しい潮の流れがあることが判ります。
空港に車が着いた時にはバス発車の5分前、そこで手続きをしてバスに乗り込みます。

結局のその時間にバスに乗ったのは1名だけでした。
 頭ヶ島集落のバス停では、近くの海を臨むところには頭に十字架を備えた「キリシタン墓地」が広がります。
この集落が潜伏キリシタンが集まった場所であることを物語っています。
頭ヶ島で病に伏した者が療養する(流される)場所であったために、人々はあえて近づくことをしませんでした。
ましてや流れの激しい海を越えてこなければなりませんので、キリシタンの弾圧もここまでは手が及びませんでした。
外部からの接触がないことが幸いして、キリシタンが隠れるのに最適の場所だったのです。
迫害にあった中通島の鯛ノ浦のキリシタンが1859年頃から移住し始め、極秘裏に集落を形成してきました。
そこから歩いて2〜3分の集落の中心に、「頭ヶ島天主堂」がひっそりと建っています。
「頭ヶ島天主堂」は全国的にも珍しい石造りの教会です。
現在見ているのは2台目の教会ですが、初代の聖堂は禁教令解禁後の1887年にカトリックに復帰した信徒によって建設されました。
現在の教会は鉄川与助の設計施工によって建設され、近くの石を切り出して10年かけた1917年にようやく完成しました。
そして2年後の1919年にはコンパス司教により祝別、献堂されました。

 教会の近くには当時の民家が改修復元されています。
畳の間の片隅に祭壇があり、十字架が飾られています。
これが頭ヶ島集落の一般的な家の様子だようです。
帰りのバスで再び「上五島空港」まで行き、中通島ドライブの再開です。

 頭ヶ島へ行くときはバスの時間が気になり周りを見る余裕がなかったのですが、改めて車を走らせてみると石を積んだ外塀が多いことに気付きます。
ここは「崎浦の五島石集落」です。
砂岩質の五島石の採石、石材加工業が盛んなところで、集落内には家屋の腰板石や石敷きの小路などの石材製品が多くあります。
外塀の石もその時に出た石を利用したものでしょう。
集落自体が独特の景観を形成しています。

 車は有川港に戻ってきました。
ちょうど昼時ですので、ここで食事にします。
上五島で食べてみたかったものに「五島うどん」があります。

 「五島うどん」は焼きそばのような細い麺です。
注文した地獄炊きは、鍋の中で煮えたぎるうどんを出汁に漬けていただきます。
有川港の前には「五島うどんの里」があり、ここで「五島うどん」を出してくれるということですので寄って見ます。
注文したのは「地獄炊き」というものです。
鍋に入れられたうどんは火をくべてグツグツ煮られています。
鍋の中で沸騰した湯でうどんが踊り、地獄を思い出させるものです。
準備されているのは通常の醤油とカツオの出汁と生卵を溶いた2種類の出汁で、これにうどんを浸けて食べます。
うどんは細麺で食べやすいものです。
これにご飯と円盤状に焼いた蒲鉾が付いた定食で、五島の味を満喫したのでした。

 ここからは奈摩湾の東岸を通り、島の北側に向けて車を進みます。
「丸尾教会」のあることろには、1899年頃までは「家御堂」と呼ばれる信徒集会所がありました。
ここは礼拝堂を兼ねており、約20戸の信徒はここに集まっていました。
1928年には丸尾の丘の上に白亜の教会が建立され、青砂ヶ浦小教区からの巡回教会となりました。
そして1972年の教会を改築し、1975年に青砂ヶ浦小教区から丸尾小教区へ独立しています。

 その先の「青砂ヶ浦天主堂」はレンガ造りの教会です。
青砂ヶ浦にキリシタンが住み付いた時期は不明ですが、1878年頃には初代教会があったと言われています。
1899年からは青砂ヶ浦が上五島の中心の教会となっています。
現教会は鉄川与助設計施工により1910年に建立したもので、信徒が総出でレンガを運び上げたものです。

 さらに進むと真下に東シナ海を見下ろす場所に、近代的な「曽根教会」があります。
1881年に建てられた2代目の教会には、鉄川与助が携わっています。
東シナ海に沈む夕日が綺麗だと聞いてきたのですが、今はまだ時間が早いのでうまくいけば帰りには眺めることができそうです。 

 ここまで順調に車を飛ばして来たのですが、ここから先は道が細くなります。
集落の中や海岸線を曲がった道を、速度を落として進みます。
右は断崖、左は山が迫る傾斜の場所に「小瀬良教会」はあります。
車を置いて石段を上って教会に向かいます。
すぐそこに見えるのですが石段が意外ときつく、息を切らせながら教会に辿り着きます。
小じんまりとした教会で集落の信徒が集まるところということが判ります。

 さて本日の最終目的地は「江袋教会」です。
本当は北の端の「米山教会」にもいってみたかったのですが、道はさらに細くなりそうなのと、昨晩居酒屋で聞いた情報では「江袋教会」に行っておいでということでしたので、ここを最終地とします。
「江袋教会」に行く途中のトンネルを抜けた場所からの眺めが良いということでした。
一瞬車線が広くなった整備されたトンネルを越えると、そこからは眼下深くに青い海と打ち付ける白波が見えます。
聞いていた通りの素敵な眺めです。 しばし車を停めて海を眺めようとしたのですが、風が強く寒くて長くは居られません。
「江袋教会」が近そうなので、早々に切り上げて先を進みます。

 その先の「江袋教会」へは細い路地を通って教会の敷地に駐車します。
木造で白い壁をもつ教会で、眼下に広がる集落からはこれまた急な石段を上ってきます。
江袋の信徒は禁教令の高札が撤去された1873年であっても激しい迫害を受けていました。
ブレル神父の指導により、1882年に教会を建てます。
2007年に焼損してしまいますが、それまでは五島で最古のこうもり天井の木造教会でした。
新たな教会は全国から支援を受けて2010年に完成しています。
集落の中の静かな場所にある教会でした。

 これからは今来た道を戻り、有川港に向かいます。
途中の「曽根教会」で車を停め、休憩します。
美しい夕日が見える場所だからです。
陽はまだ高く日没までは少し時間があるのですが、厚い雲が空を覆っています。
この分なら夕日が望めそうにもありませんので、残念ながらこの場所を後にします。

 レンタカーを返し、本日はホテルでの夕食です。
古いホテルで何が出てくるのか心配をしていましたが、目の前には多くの皿が並び海のものが勢揃いです。
捕れたての刺身はもとより、五島の鯨、五島牛などが並びます。
最後の締めとしてアワビご飯までついている、豪華な食事でした。

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